10-14 仏典の漢訳の問題

 二世紀の安世高や支婁迦讖の漢訳が経典の漢訳の始まりである。それ以降、驚くべき量の経典が漢訳されてきた。ところで、「経典の漢訳」ということについていくつかの誤解をしていたようである。ひとつは、その原典でなる経典の移入のルートである。当然のことながら、シルクロードを偏重しすぎていたのではないか。もうひとつは、「経典」の意味である。紙や貝葉などに文字で書かれて整理されたものというイメージをもつ。しかし、それだけではないようである。

 第二の点から考えてみたい。

 仏典は文字化された形で中国にもたらされたとは限らないようである。私は戒律が中国にどのように移入され、どのように大乗の戒律として整備されていったのかについて関心を持っている。それを調べているうちに不思議な記述を見つけた。

 最初は、法顕の『仏国記』 である。法顕は五世紀の初頭に、律蔵を求めてインドへ行った。ところが、律はインドでは、成文化されず、暗誦され、口伝で伝えられていた。法顕が行った五世紀の頃には、経典は成文化され、論蔵も成文化されていた。仏典は、仏滅後、長い間、口伝により伝えられている。成文化された仏典の出現は、紀元前一世紀ごろの西北インドといわれている。(『東アジア仏教とは何か』p46)。しかし、律蔵はまだ、暗誦されていた。法顕は、口述筆記の形で、律蔵を入手した。 
 
 それは、中国においても同じであった。鳩摩羅什は五世紀の初頭、法顕のインドへの旅たちと交代するように長安に入り、翻訳事業を開始した。羅什はなぜか律蔵の翻訳に熱心ではなかった。要請を受けてようやく律蔵の翻訳もおこなった。しかし、律蔵は、渡来僧の暗誦から漢訳をしたという記録が残っている。

 第一の問題について考える。

 シルクロードブッダロードともいわれるように、仏教がインドから中国に伝えられたルートであり、中国から求法の僧たちがインドへ向かったルートでもある。絹とともに多数の経典と渡来僧が通った道でもあるのだ。

 ところが、仏教は南海経由でも伝わってきた。法顕がインドからの帰路を南海経由にしたのはよく知られている。しかし、達磨などインドからの渡来僧が南海経由で中国に来ている。仏教の発展に対して南朝が果たした役割を見直す意味でも、南海経由の仏教のことを調べてみたい。