10-12:ホータンからの仏教

10-12:ホータンからの仏教


■ はじめに
 
 タリム盆地の南は崑崙山脈が東西に横たわっている。ホータン(于闐 うてん)はタリム盆地の南西の端にあって、崑崙山脈から流れ出る川沿いに発展したオアシス都市である。シルクロードの西域南道の最も西に位置し、パミール高原を越えると、パキスタンである。かつてここにホータン王国が栄えた。仏教も盛んであった。

 中国の歴史書である『史記』の大宛伝によれば、張騫(ちょうけん)がホータンを訪れた紀元前二世紀にはすでにかなり繁栄していたという。紀元前三世紀のマウリア朝のアショーカ王の頃にはすでに建国されていたであろう。西北インドガンダーラなどで用いられていたカロシュティー文字が使われており、インド系住民が早くから住みついていたようである。中国の南北朝時代、ホータンは楼蘭と並んで西域南道の要地であった。

 法顕は五世紀の初頭、インドへの求法の旅の途中にここに立ち寄っている。玄奘は七世紀の半ばにインドからの帰りにここに立ち寄った。法顕の『仏国記』と、玄奘の『大唐西域記』のいずれにも、かつてのホータン王国が仏教国であり、かつ、大乗仏教が優勢であったように記録されている。「僧侶はなんと数万人おり、多くは大乗学である」(仏国記)。西域の仏教は、部派仏教が優勢であった。とくに天山山脈の南の西域北道沿いのオアシス都市は部派仏教(小乗仏教)のみであった。西域北道の中心にあった亀茲国(きじこく)はその例である。 

 『仏国記』と『大唐西域記』は、インドの各地において、なお部派仏教が盛んであることを記録に残している。最近の研究が指摘するところによれば、インドでは大乗仏教は主流にはなれなかった。西域のタリム盆地でも同様である。その中で大乗仏教が優勢な都市国家が、タリム盆地の南西の端で、インドに最も近い位置にあるところにあったということになるから、驚かずにはいられない。

 ホータンは、中国への仏教の伝来を考える上で、その発信地、中継地の一つとして重要な意味を持つ国である。西域で大乗仏教が盛んであった唯一の都市国家であったことを考えると、中継地としてよりは、発信地と役割に注目したい。


■ ホータンからの仏教

◇ 鳩摩羅什

 鳩摩羅什が四世紀の半ばにカシミールでの留学を終えた帰路に大乗仏教に出会っている。その場所はカシュガルということであるが、カシュガルはホータンの西北のパミール高原の麓にある都市国家である。カシュガルは部派仏教の国であるとの記録が残っているから、鳩摩羅什は、ホータンの大乗仏教の影響下にあったカシュガルの地方で大乗仏教に出会ったのだろうか。

 鳩摩羅什がここで大乗仏教に出会うことがなければ、中国の仏教はいまとはまったく違うものになっていただろう。

◇ 『放光般若経

 ところが、ある事件の記録が残っていて、部派仏教が意外に強い勢力を有していたことがわかった。朱士行(しゅしこう)がホータンで『般若経』のサンスクリット本を得て、弟子の弗如壇(ふっにょだん)に洛陽まで送り届けさせたという事件である。

 二世紀に支婁迦讖(しるかせん)が『道行般若経』を漢訳した。『道行般若経』は最初の漢訳般若経である。魏の朱士行(しゅしこう)は洛陽でこの経を講説していたが、意味の通らないところがあった。そこで、朱士行はその原本を求めて260年に出立した。朱士行はホータンでこの原本を手に入れ、弟子の弗如壇に託して洛陽に届けさせようとした。この原本によって291年、『放光般若経』が訳出された。同じくホータン出身の沙門無叉羅(むしゃら)がサンスクリット本読み、竺叔蘭が漢語に訳している。

 このとき、部派仏教の学徒が王に訴えて妨害しようとしたという。この事件によってホータンにはこの頃、大乗をバラモンとみなすほどに対立し蔑視し、なおかつ、王に対して影響力をもつような部派仏教の一団がいたことがわかる。ホータンに伝わる伝説によれば仏教が入ったのは、紀元前一世紀の前半であることから、その仏教はカシミールの部派仏教だと考えられる。前記の事件は、二世紀においてはその部派仏教が、なお大きな力をもっていたことを示している。

 このとき、部派仏教が王へ訴えた内容が伝えられている。
 「漢地の沙門、婆羅門の書を以て、真言を惑乱す。王は地主たり。
 若し之を折せずんば、大法を断絶し、漢地を聾盲にせん」

 当時の大乗仏教と部派仏教の対立の激しさを知ることができる。

 『放光般若経』とほぼ同時期に、同じ大品般若経である『光讃般若経』が訳されている。この経のサンスクリット本も実はホータンの沙門ギ多羅がもたらしたものであるから、ホータンから将来されたものである。もたらされた286年に、すぐに竺法護によって訳された。

 このように『放光般若経』は『光讃般若経』より四年早くもたらされていたが、漢訳されたのは五年遅かった。しかし、『光讃般若経』はその後久しく、甘粛地方に埋もれ、約一世紀後の376年になって道安のもとに届けられている。

◇ 『華厳経

 ホータンからは支法領(しほうりょう)によって『華厳経』がもたらされている。三万五千じゅからなるもので、418年から420年にかけて仏駄跋陀羅(ぶっだばだら 359~429年)が六十巻『華厳経』として訳している。『華厳経』はそれまで各品がバラバラで伝えられ、別行経として竺法護らによって漢訳されていたが、大本『華厳経』として伝えられたのは初めてである。この大本『華厳経』の漢訳の意義は大きく、六朝から隋・唐にかけて、天台と並び、中国で成立した仏教哲学の双璧である華厳教学を成立させた。

 
◇ 『涅槃経』

 北涼の沮渠蒙遜(そきょもうそん、368~433年、在位401~433年)のもとで訳経活動を行った訳経僧として中インド出身の曇無讖(どんむしん)がいる。はじめ部派の仏教を学んだが『涅槃経』を読んで、これに感激し、大乗を業とするようになった。王に寵されていたが誣告するものがあり、『涅槃経』や『菩薩戒本』の経本をもって亀茲に逃れた。

 412年、姑蔵を都として北涼を建国していた沮渠蒙遜に招かれ、携えてきた『涅槃経』ほか大乗の『菩薩地持経』や『優婆塞戒経』などを姑蔵で漢訳した。『涅槃経』は前分のみで、その残りはホータンにおいて経本を得て、おなじく姑蔵で訳したという。

参照・引用
・河野 訓 「仏教の中国伝来」
  シリーズ 東アジア仏教第一巻 『東アジア仏教とは何か』 春秋社