10-11 法顕の旅

10-11 法顕の旅


 法顕敦煌に一ヶ月滞在した。敦煌の太守李嵩(りこう)が北涼(397~439年)から自立して、西涼(400~421年)を建てたばかりのときであった。法顕は李嵩から資材を提供を受け、最初の砂漠を渉る旅の準備をした。『法顕伝』は敦煌楼蘭の間に広がる砂漠を「沙河」と表現している。

 楼蘭は当時シルクロードの要衝で、西域北道(天山南路)と西域南道の分岐点となっていた。敦煌を出て西に向かう。沙漠の中を歩くこと17日。法顕は楼蘭に辿り着いた。その間の距離は約400km。『法顕伝』はそのときの様子を下記のように記している。

  「砂漠の中に熱風あり。会えばたちまち皆死してひとつとして全きものなし。
   上に飛鳥無く、下に走獣無し。ただ死人の枯骨を以て道しるべとなすのみ。」

 有史以前の遠い昔、タリム盆地全体の沈降・陥没と天山・崑崙山脈の上昇・隆起という地殻変動を続け、タリム盆地の東方に広大な湖水域が形成された。西南から東北にかけて250キロ、幅は150キロもある巨大な湖であった。日本の琵琶湖の十数倍の広さである。

 湖水域はその後次第に狭くなってゆく。この時代に湖底に堆積した湖成層は、現在ヤルダン風食地形を形つくっている。玉門関を出てしばらくゆくとやがてヤルダン地帯(風化土椎群)に入る。強風が土を削る。風は何百万年も、同じ方向に吹く。軟らかい土が削られ硬い部分が小山のように残る。その形状はさながら鬼の城のようであり魔鬼城とも呼ばれる。ロプ・ノールの比較的新しい湖底の跡は無数の白い龍が伏せているような地形となる。これを白龍堆(はくりゅうたい)という。ヤルダンは形を変えて楼蘭まで続く。

 法顕はその後楼蘭から北に向かいカラシャールにいたる。ここからタリム盆地の南西のオアシス国家ホータンに出るまでのルートはあきらかでない。おそらく、タリム川を東上し、ホータン川と交わるところからホータン川沿いに南下し、ホータンに向かったと思われる。この行程について、法顕は「この行路中には住む人もなく、砂漠旅行の艱難、経験した苦しみはとうていこの世のものとも思われなかった。」と記している。