10-10 法顕の出発

10-10 法顕の出発

 法顕(ほっけん、337?~422年)は399年春、長安西安)を出発した。玄奘三蔵に先立つこと200年。60歳を過ぎてからの旅立ちである。法顕の旅の目的は律蔵の入手である。律蔵は戒律を内容とする仏典である。ちなみに経を内容とするものを経蔵、論を内容とするものを論蔵という。三蔵はこれらの総称である。三蔵に精通した人を「三蔵」という。

 戒律は出家教団に不可欠のものである。中国において出家教団が成立した時期は比較的新しい。教団の成立は出家の制度を前提とする。仏教は前漢の時代から中国にもたらされていた。しかし、長い間漢人の出家の制度はなく、活躍した僧侶は西域の渡来僧ばかりであった。漢人の出家が認められたのは五胡十六国(304~439年)の時代に至ってからである。

 仏図澄(ぶっとちょう、?~348年)は中国の神異僧の第一に挙げられる。五胡十六国時代の西域からの渡来僧である。亀茲国(きじこく、クチャ)出身といわれる。当時のいわゆる胡族国家は仏教によって国を維持する政策をとり、僧侶で国の枢機に携わる者も多かった。仏図澄もその一人であった。五胡十六国の一つ、後趙(こうちょう 319~351年)の二人の王、石勒(せきろく)・石虎(せきこ)に軍師として重用され活躍、その信頼を獲得した。

 仏図澄は、石虎に対して漢人の出家を許可するよう導いた。出家の公認により中国において出家教団が初めて成立した。仏寺の建立は893、弟子は1万といわれる。その数多くの弟子の中から、道安(どうあん)などの優れた弟子が出た。中国仏教発展の基盤は仏図澄によって築かれた。

 『法顕伝』は法顕が旅の記録を記した本である。その本は「法顕は長安にあって律蔵の不完全なことを嘆いていた。そこでついに・・・インドへ行き、戒律を尋ね求めることにした。」という文章で始まっている。仏図澄が亡くなってからほぼ半世紀、教団の発展につれて律蔵の不完全さが露呈してきた。

 法顕は河西回廊の最後のオアシス都市 敦煌に一ヶ月滞在した。敦煌の太守李嵩(りこう)が北涼(397~439年)から自立して、西涼(400~421年)を建てたばかりのときであった。法顕は李嵩から資材の提供を受け、最初の砂漠を渉る旅の準備をした。現在の敦煌に法顕滞在の痕跡は残っていない。西涼北涼の圧迫で衰え、北涼はやがて北魏(386~534年)に併合される。

 法顕の帰朝は412年、出発から14年後のことである。帰路は南回りの海路を利用した。