10-17 「教判」と羅什の影響

10-17 「教判」と羅什の影響

■ はじめに

 仏教を移入した中国においては、インド仏教史の歴史的発展に関する正確な情報がなかった。また、多くの大乗経典と小乗経典が、その冒頭に「如是我聞」という言葉をおいたことから、中国においては、一部の例外を除いて、多くの大小乗の経典は釈尊によって直接説かれたものとして受容された。「如是我聞」とは「このように私は聞いた」という意味であるが、これは阿難に代表される仏弟子が、釈尊から直接聞いた教えを、以下報告するという体裁を取っていることを意味する。その建て前を素直に受け止めた中国人の多くが、多くの大小乗の経典を仏説、金口直説(こんくじきせつ)とみなしたことは当然であった。

 歴史的事実としては、あるいは対立しつつ、あるいは信仰の内実を異にしつつ、成立していったインドの経典がすべて釈尊の説いたものとみなされた。したがって、中国において経典の研究が進むにつれて経典間に横たわる思想の相違・矛盾対立が浮き彫りになってきた。もはやこの思想の相違・矛盾対立を放置できなくなった。

 そこで、多くの経典の中で、釈尊のもっとも中心的な思想は何であるか、またその中心的な思想と相違する、はなはだしい場合には矛盾対立する思想は何故に説かれなければならなかったのか、というような思想的な営みが要請されることになった。

 このような営みを改めて定義すると、釈尊の説いたとされる多くの教典を何らかの基準に基づいて整理統合することであり、これを教相判釈、略して教判という。


■ 鳩摩羅什
 
 401年、前秦の姚興(ようこう 在位394~416年)は、国師の礼をもって鳩摩羅什長安に迎え、国家的文化事業として仏典の翻訳をさせた。『出三蔵記集』巻第二の経録によれば、羅什が訳出した仏典は経典が二十六、論・律が九、合わせて三十五部、二百九十四巻といわれている。

 その主なものをあげれば、
大品般若経』『小品般若経』『妙法蓮華経』『阿弥陀経』『思益経』『維摩経』『金剛経』などの大乗経典、
坐禅三昧経』『禅秘要法経』『禅法要解』などの禅経典、『十誦律(じゅうじゅりつ)』『十誦比丘戒本』などの律典、および
『中論』『十二門論』『百論』『大智度論』『成実論』などの論書をはじめ、
『馬鳴菩薩伝』『龍樹菩薩伝』『提婆菩薩伝』などの伝記類
 にわたっている。


■ 鳩摩羅什の影響

 羅什の教判形成に与えた影響の第一の点は、大乗と小乗の区別大乗の優位、である。『大智度論』は『大般若経』の注釈書である。『大智度論』の中国の教判形成に与えた影響は、大乗と小乗の区別、大乗の小乗に対する優越的な関係の確立である。羅什と廬山の慧遠(えおん 334~416年)の往復書簡集ともいうべき『大乗大義章』においてこのことが強調された。その中で、小乗阿毘曇と大乗を同列に扱う慧遠に対して、羅什は『大智度論』の思想を背景に、仏教には大乗と小乗とがあり、大乗の方が深遠で真実の教えであるから、大乗に基づかなければならないことを指導した。

 第二の点として、多様な経典のそれぞれの役割を認めること、
 第三の点として阿羅漢成仏の問題をめぐる『般若経』と『法華経』との相違の説明に説時の前後という視点を導入したこと

などを挙げることができる。


■ 天台智顗の「五時八教」

 法華経を中心とした智顗の五時教判の原型がここにみられるように思われる。隋の時代(六世紀後半)に出た天台大師智顗は、釈尊一代五十年における説法の次第や教法の内容、教化の方法などを総合的に判釈した「五時八教」を立てて、一代諸経の勝劣浅深を明確にした。

 「五時」とは、釈尊一代の化導を説法の順序に従って、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五期に分類したものをいう。また「八教」は「化法の四教」と「化儀の四教」とに分けられる。このうち「化法の四教」とは、釈尊の教えの内容を分類したもので、蔵教・通教・別教・円教の四つをいい、「化儀の四教」とは、衆生を化導する方法を分類したもので、頓教・漸教・秘密・不定教の四つをいう。

参照・引用
・菅野博史 「東アジア仏教の経典観-中国を中心として」
 『シリーズ・東アジア仏教』第1巻 東アジア仏教とは何か 所収
http://www.geocities.jp/shoshu_newmon/syakuson_osie.htm