10-18 中原から江南へ 混乱期の意味

10-18 中原から江南へ 混乱期の意味

 

  魏晋南北朝は、分裂の時代、動乱の時代だといわれる。前後400年に及んだ漢王朝の崩壊のあと、魏・蜀・呉の三国鼎立に始まり、ひとたびは司馬氏の建てた晋王朝によって安定が保たれたかに見えたものの、その晋がいくばくもなくして北方に勢力を得た民族の圧力を受けて江南に遷ると、やがて北でも南でも次々と支配勢力が入れ替わり、隋の統一に至るまで、実に大小35もの政権がここに誕生しては、姿を消した。分裂の時代といわれる所以である。

 この間、史書に記される万余の兵力が衝突した大規模な戦いだけでも数百を数え、戦闘は日常化していた。各種の政治勢力による主導権争いや各地に割拠した政権間の戦いばかりではなく、政権内の内紛があり、諸民族間の衝突があり、さらに追い詰められた農民とそれを糾合した宗教結社による叛乱がこれに加わった。「死者万をもって計う」「白骨野を蔽う」「人相い食む」「存するもの百に一二なし」「千里煙なし」といった記述の数々を、この時代を語る史書のなかに見出すのは、どの時期であれ難しいことではない。動乱の時代といわれる所以である。

 どれほどの大乱であったかをもの語る端的な指標は、この間の人口の激減である。後漢の後半にはほぼ一千万戸、五千数百万人を数えていた人口は、三国の争覇の後には二千万から三千万人にまで、ある記録によれば一千六百万人にまで減少した。非命の死を遂げたものがどの時代よりも多かった。戦誕よゑ死者はもとより、田園は荒れ、社会の生産体制が破壊されたことから、糊口を凌ぐことさえ困難な地域も多かった。

 それでも、生き延びんとした人びとは、戦乱の地を逃れ、安住の場所を求めて、大陸各地を東へ西へ、南へ北へと流離した。この時代の全体の流動人口がどれほどのものになるのか、統計のとり方によっても変わるが、西晋が滅ぶ直接の契機となった識の乱の直後だけでも、中原から准河以南に逃れたものは数十万人余にのぼる。こうした流雛四散は、この時ばかりではない。打ち続く戦いのたびに繰り返された。これとは逆に、旬奴、氏、鮮卑などの民族で北辺から流入して漢族と入り混じった人数も優に一千万は超えると見られる。これだけの規模の人口の大移動が集中して起こった例は、長い中国史の中でも極めて稀なことである。

 このことは、当然のことながら、当時の社会に深刻な影響を及ぼした。しかし、その一方で、民族間の融合が促され、それぞれの文慨衝突を繰り返しながらも混交してゆくという現象も生まれた。つまり灼熱の財渦と化した大陸のなかで、答も稀もなく、固有のものが溶かされ、変質し、新たなものとしてこの世に生み出されていったのである。そのことの具体的な姿は、この巻の随所に見られるごとくである。

 分裂の時代.動乱の時代は、同時に異なった文明の融合する時代でもあった。ただ暗黒の面だけに眼が行きがちであるが、このことの中国文明史上の意義は、ことのほか大きい。中国の古代文明はここで大きく変質し、より豊かで、より味わい深いものとなって、私たちの眼の前に姿を現すこととなる。

 たとえば、この時代を経たことによって、前代にはただ一種の中央と地方、さらには辺境という位相的な差異しかなかった世界に、南北という明確な対立軸ができ、それによってこれまでとは違った複合的な中華世界が誕生することとなった。

 そのことを最もよく示すのが、江南の世界である。漢代の江南とこの時代を経過したあとの唐代のそれとでは、経済的重要性から見ても、文化史的意義から論じても、あるいは人口の分布密度から言っても、まったく別の世界である。のちに東晋の雛となって腕を振るうことになる王導に従って中原から長江を渡って江南に移って来た百官たちは、眼に映る山河のあまりの違いに覚えず涙をこぼしたが、それはただ自然環境の差異ばかりではなかったはずである。

 その後、東晋以降の政権の二百数十年にわたる苦心の経営によって、江南の開発は飛躍的に進み、隋の時代には、産業、経済、文化、学術、いずれの点においても、欠くべからざる重要な地域となった。その礎石がこの時代に用意されたのである。

 形而上の世界でも、漢代の儒学一尊の状況から、仏教と道教がそれぞれのレゾンデートルをもち、三教の併存や対立、また融合が常態となったことは、この文明に一層の厚みと多様性をもたせることになった。

 魏晋南北朝、三国争覇の時代から数えるとほぼ四百年、過渡期というには、あまりにも長い。この時代に生を享けた人びとは、この不安定な世界が世の常なる姿だと思ったに違いない。生まれてこの方、一日として寧日はないと感じられたことであろう。このことが、人びとの日々の生活やものの考え方に影響を及ぼさないわけはない。

 この時期に醸成された文明が、それぞれの局面において、素朴な力強さや繊細な華麗さの中に人間存在に関わる深い洞察を秘めるようになるのは、そうしたことによるのだろうと、私は考えている。この読晋南北朝という、天下大乱の苦難に満ちた時代を通過しなければ、中華の文明は相当痩せ細ったものとして終わっていたに違いないのである。不幸な時代が、後世に豊かな遺産を残したことになる。


 引用・参照文献
・稲畑耕一郎 「融合する文明」