10-06 「魏晋南北朝時代」とは

■ 一覧表


       魏                        東魏   北斉
     (220-265)  西晋  五胡十六国  北魏 (534-550)(550-577)
  後漢   蜀  (265-316) (306-436) (386-534) 西魏   北周    隋    唐
(25-220) (221-263)                (534-556) (557-581) (581-619) (618-907)
       呉      東晋     宋     斉      梁      陳
     (222-280) (317-420) (420-479) (479-502) (502-557) (557-589)  



■ 三国時代(220~280年)

 三国時代は、中国の時代区分のひとつ。220年に後漢献帝から魏の曹丕へと禅譲が行われて後漢が滅亡してから、280年に西晋が中国を再統一するまでの時代を指す。曹丕が皇帝になった翌年の221年には四川地方に拠った劉備が蜀(蜀漢)の皇帝となり、229年には長江流域に拠った孫権が呉皇帝となり、この世に一人だけと言う建前の皇帝が同時に三人立った時代である。


■ 魏晋南北朝時代(220~589年)

 黄巾の乱によって後漢が滅び、魏、呉、蜀の三国が分立した時代から、隋が中国を再び統一するまでの約三七〇年間(220~589年)を総称して魏晋南北朝時代という。

 この時代は政治的には数カ国あるいは南北に分立抗争した、分裂の時代であったが、胡漢両民族の混淆や異質文化の流入により歴史的活力が高まり、伝統文化が再生発展した意義は大であった。また漢族の南遷によって江南の開発が進み、漢人の活躍の舞台が拡大されたことも重要である。

 もう一つ特筆すべきことは、江南で優雅な中国的な貴族文化が発達したことである。江南では、三国時代の呉に続く東晋・宋・斉・梁・陳の六王朝が興亡したが、この六王朝はいずれも現在の南京に都を置いた。現在の南京は呉の時代には建業と呼ばれたが、東晋以後は建康と呼ばれた。この六王朝を六朝(りくちょう)と総称し、この時代を六朝時代といい、その文化を六朝文化と呼ぶ。

 六朝文化の担い手は貴族であった。当時の貴族の教養とされたのが「玄、儒、文、史」である。玄は老荘思想、儒は儒学、文は文学、史は歴史である。


■ 五胡十六国(304~439年)

 304年の前趙(成漢)の興起から439年に北涼北魏に滅ぼされるまで、華北に興亡を繰り返した「五胡」および漢人の諸国家の総称、もしくはその時代。
 五胡十六国は、中国に初めて異民族が次々と侵入してきた時代でもある。この異民族の侵入は、それまで中華思想のもとに遮断されていた外国との文化の交流も可能にした。西の方から弱体化した中国に流れ込んできた異民族の激流は、仏教の流通にも計り知れないほど貢献していた。

 五胡十六国をすべてあげれば次の通りである。

 前涼(301-376) 成漢(302-347) 前趙(304-329) 後趙(319-351)
 前燕(337-370) 前秦(351-394) 後秦(384-417) 後燕(384-407)
 西秦(385-431) 後涼(386-403) 南涼(397-417) 北涼(397-439)
 南燕(398-410) 西涼(400-421) 大夏(407-431) 北燕(409-431)


■ 南北朝時代南朝

 宋・斉・梁・陳の四王朝をまとめて南朝(420~589年)と呼ぶ。華北で興亡した北魏以後の五王朝と江南の四王朝が併存し、対立した時代を南北朝時代(439~589年)と呼ぶ。

引用・参照
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/5637/gokojyuurokoku.htm