南北朝時代の仏教諸派 2

南北朝時代の仏教諸派

 2007/5/31(木)

 

1.涅槃学派    南北朝時代から隋唐初に至る『涅槃経』研究を中心とした系統を涅槃学派という。   ◇道生    『涅槃経』研究者として先ず第一に挙げるべきは頓悟成仏説・闡提成仏説などを最初に唱えた道生である。    道生(355-434)は、東晋の義煕十四年(418)に訳出された六巻『泥?(ないおん)経』を研究し、『泥?義疏』を著わし、さらに劉宋の元嘉七年(430)末、曇無讖によって北本『涅槃経』が華南に伝来すると、それを講義した。道生とともに羅什の下で『涅槃経』を研究した人には、慧厳・慧観・僧導・曇無成がある。    慧厳(363-443)は、羅什門下の四哲の一人。『無生滅論』『老子略注』を著わしたが、北本『涅槃経』が宋土に来るや、慧観・謝霊運と共にこれを『六巻泥?』と対照して三十六巻本『南本涅槃経』を完成した。江南の涅槃学派は専ら南本によって研究した。    慧観(生卒未詳;宋・元嘉中=424-453に世寿71で没)は、廬山慧遠の弟子。羅什にも師事し、『法華宗要序』を著わして羅什に呈した。羅什の没後は荊州に行き、文帝の時には建康の道場寺に住した。『弁宗論』『論頓悟漸悟義』『十喩序讃』『勝鬘経序』『修行地不浄観経序』などを著わしたが、『涅槃経』を研究し、一代教を頓教(『華敵経』)と漸教に分け、さらに潮教を三乗別教(三乗の行因得果不同を説く経)、三乗通教(『般若経』)、抑揚教(『維摩経』『思益経』)、同帰教(『法華経』)、常住教(『涅槃経』)の五教に分けて五時の教判を主張。『涅槃経』をもって仏一代の説教につき最極の経として、これを常住教といったのは慧観に始まる。弟子に霊根寺法?がある。    法?(409-489)は、道生の頓悟説を主唱したため、何尚之をして「今日、復た象外の談を聞く。謂つべし、天未だ斯の文を喪ぼさず」(『梁伝』巻八、法?伝)と嘆ぜしめたという。法?の弟子には僧宗がある。    僧宗(438-496)は、成実学派にも属する雲斌・曇済に学び、講説ごとに、聴者千余人に近かったという。僧宗の涅槃の講義の名声を慕って南地にきたのが北地の曇准(439-515)であり、慧観の涅槃研究の系統は、法?─僧宗─曇准と次第した。    曇無成(宋・元嘉中=424-453に世寿64で没)は、羅什の弟子で、顔延之や何尚之とも交わりを結んだ。著書に『実相論』『明漸論』『申無生論』がある。    道生や慧観らと同時代、涅槃研究において著名な人に慧静がある。    慧静(生卒未詳;宋・元嘉中=424-453に世寿60余で没)の著作は、多く北地に流伝したという。彼は「法輪一たび転ずる毎に輙ち帙を負うもの千人あり」(『梁伝』巻七、慧静伝)といわれ、『法華経』『小品般若』を誦し、『維摩経』『思益経』に注釈し、『涅槃略記』『大品旨帰』『達命論』を著わした。なお同名異人の慧静も涅槃を善くした人で『仏性集』を著わした。    『涅槃経』の注釈としては、前述の慧静の『涅槃略記』のほか、道生および僧鏡の『泥?義疏』、法瑤の『涅槃義疏』などがあるが、もっとも有名なのは宝亮の『涅槃義疏』である。    宝亮(444-509)は、斉の文宣王の請により霊味寺に住して『涅槃経』や『成実論』を始めとする多くの経論を講じた。僧俗の弟子三千余人。受学の門徒は常に数百人といわれる。梁の武帝の天監八年(509)五月、勅命によって『大般涅槃経義疏』十余万言を撰して九月に完成、武帝はこれに序文を書いた。同年十月四日示寂。なお、『義疏』のほかに『涅槃経集解』七一巻が宝亮の撰述とされて現存しているが、或いは宝亮の撰述ではなく、建元寺沙門僧朗の撰述かも知れない(『唐伝』巻一、宝唱伝。『歴代三宝紀』巻11)。本書には、道生・僧亮・法瑤・曇済・僧宗・宝亮など諸家の学説が集めてあり、涅槃学派研究の必読書である。宝亮は成実論研究者でもあり、弟子には成実学者として名高い光宅寺法雲がおり、その弟子の僧詢・宝海・宝瓊や宝瓊の弟子の慧哲などは涅槃・成実を兼学した。    北地において『涅槃経』研究で有名なのは曇延である。    曇延(516-588)は、16歳で僧妙法師の『涅槃経』の講義を聴いて出家し、諸経論を学んだが、とくに『涅槃経』の注釈を行ったという。その著『涅槃経義疏』一五巻は、地論宗南道派の浄影寺慧遠の『涅槃経義記』に勝ると評された。北周廃仏の際には太行山に隠れたが、隋代に入ると文帝に厚遇され、延法師衆なる一派の成立が認められたという。弟子には慧海(550-606)・童真(543-613)・通幽・覚朗・道洪(574-649?)・道?(556-630)・慧誕(557?ー627?)・道謙・玄?(562-636)・法常(567-645)などがあった。現存する著書として、前述の『涅槃経義疏』の断片と『大乗起信論疏』(上巻のみ)がある。       2.成実学派    鳩摩羅什が訳出した『成実論』を研究した系統を成実学派という。『成実論』の研究は初め北地において行われていたが、その後江南地方において最も盛んとなり、梁代には南地成論大乗といわれるほど隆盛を極めた。  『成実論』は、初め大乗の論典あるいは大小乗を総括した綱要書として受容され、南北朝(5-6世紀)を通じて盛んに研究され一世を風靡した。だが、仏教学の進展と共に、北地では地論宗南道派の 法上(495-580)が小乗教であると判じ、南地でもやや遅れて天台学派の智顗や三論学派の吉蔵が小乗と判断したことから研究者も減少した。その背景には、大乗仏教への志向や、『十地経論』『摂大乗論』の流布、三論学の台頭などが考えられる。     羅什門下の成実学派の二大系統は、南地に弘法した僧導と、北地で活躍した僧嵩に始まる。    僧導は、寿春の東山寺(劉裕すなわち宋武帝が僧導とその一門を迎えて建立した導公寺)で三論・成実を講説し、『二諦論』『成美論義疏』を著わした。これが『成美論』に対する最初の注釈である。寿春は後に羅什訳『成実論』の研究の中心地となる。彼は建康でも講説し、南地における成実論研究の指導的役割を果たした。弟子に曇済・道亮・僧鐘がいる。道猛(414-475)も僧導の弟子と思われる。    雲済は、劉宋代の人で、日本鎌倉期の凝然『八宗綱要』では三論学派の祖として列名されている。また、涅槃学者としても知られ、僧宗は彼に修学したことがある。彼の涅槃学については、宝亮の作とされる(建元寺僧朗の作かも知れぬ)『涅槃経集解』に紹介されている。曇済は『六家七宗論』を著わし、当時における空理解の仕方に六家七宗を立てた。六家とは、本無宗・即色宗・識含宗・幻化宗・心無宗・縁会宗であり、七宗とは、これらに本無異宗を加えたもの。これはあくまでひとつの纏め方であって、学派として六ないし七の系統があったというわけではなかろう。そして実際には、もっと多くの考え方が存在していたはずである。曇済・道猛の弟子に法寵(451-524)がいる。    多宝寺道亮(宋泰始中没)は、『成実論義疏』を著わした。涅槃学者であるが、成実を講じること十四遍という。梁の宝亮が小亮といわれたのに対し道亮は大亮と呼ばれた。道亮の弟子には智林がある。    智林は、三論学を研究している。『二諦論』『毘曇雑心記』『注十二門論』『注中論』を著わし、『成実論』は大乗義を顕わすものとした。    僧嵩は、南地に成実論研究を敷衍した僧導とならび、北地において成実論研究の一大系統をなしている。羅什より『成実論』を受けて北地の徐州彭城においてこれを弘めた(『魏書』釈老志)。僧導の弟子たちの多くは北魏の信任を得て活躍した。名が知られている弟子は僧淵である。    僧淵(414-481)は、『涅槃経』は外道の説で仏説に非ずとしてこれを誹議した。僧淵の弟子に曇度(489没)・道登(421-496)・慧記・慧球(431-504)・法度(437-500)などがいる。    曇度は僧淵に従って『成実論』を受け、これに精通した。高祖孝文帝のために講義し、平城で教化をつづけて学徒千余に達したという。『成実論大義疏』を撰した。    道登は僧淵より『成実論』を学び、魏室に招かれて盛んに講説した。道登は孝文帝に信任厚く、南伐に随従し、敵地の宣撫工作に活動したという(『南斉書』巻四十五、遥昌伝。『魂書』釈老志)。    南地で有名な成実学者に、僧柔(431-494)・慧次(434-490)がいる。    斉の永明七年(489)十月、文宣王が京師の碩学名僧五百余人を集め、定林寺の僧柔と謝寺の慧次を請じて、普弘寺において交替で『成実論』を講ぜしめた(『略成実論記』)。僧柔の著作として『略成実論』があった。この僧柔と慧次には多くの弟子がいたが、梁の三大法師といわれる開善寺智蔵(458-522)・荘厳寺僧旻(467-527)・光宅寺法雲(467-529)の三人は最も有名で、涅槃学を兼学している。     開善寺智蔵 (458-522)は、斉の文献王に知遇を得、文宣王が維摩経を講ずるときに参加して名を挙げた。梁の武帝にも礼遇され、三代法師の中でも最も『成実論』の発揚に尽力した。その著『成実論大義記』と『成実論疏』は当時における成論大乗師の依り所となったという。『成実論』を小乗と判じたのは、智顗・吉蔵以後のことで、恐らく梁代までの学者はこれを大乗として講述してきたと思われる。智蔵の門下で有名なのは竜光寺の僧綽であり、建元寺の法寵とともに成実に秀いでていた。    僧綽の説は、吉蔵の『大乗玄論』『二諦章』などにも盛んに引用されている。彼の弟子に慧壜(515-589)・洪偃(504-564)・警韶(508-583)がある。    慧韶は、僧旻・智蔵から『成実論』を学び、さらに僧綽の教えを受け、独自の見解を示し「滅諦を弁じて本有と為し、鹿細を用いて心を折す」(『唐伝』巻六、慧詔伝)るとした。    洪偃は、『成実論疏』を著わし、陳の文帝の帰依を受けた。     光宅寺法雲 (467-529)には、現存する著作として『法華義疏』八巻(部分欠)がある。一乗思想を闡明し、最初期の四車家として位置づけられている(ただし、大正蔵本の欠落箇所では三車家的表現がなされており、なお検討を要する)が、『法華経』は『涅槃経』に比して不完全であるという判釈を行っており、後に吉蔵や智顗から批判されることとなる。また、日本の聖徳太子の『法華義疏』は本書に依拠して書かれている。そのほか彼には『大品注経』があったという。彼から成実・涅槃を共に学んだ弟子に陳の大僧正となった宝瓊(504-584)や、宝海(492-571?)、僧詢があり・成実学の弟子に智方・慧成、涅槃学の弟子に道遂・道標などがいる。     荘厳寺僧旻 (467-527)の弟子のうち成実学者としては、宝淵(466-526)・僧喬(467-502?)等がいる。    その他系統不明な成実学者に南澗寺仙師があり、その弟子に三論宗の法朗(507-581)、また、隋代の成実学者に煬帝の江都・慧日道場の智脱がある。    智脱(541-607)は、華厳・十地・毘曇・成実を学び、煬帝の勅命により『成実論疏』四〇巻を撰した。ほかに『釈二乗名教』『浄名経疏』があった。維摩経を講じて三論学派吉蔵と議論し、梁の招提寺慧?の『成実論玄義』を刪正し流布した。    なお、隋代になると明確に学派化する三論学派は、初期において多く南地の成実学を承けている。