南北朝時代の仏教諸派 2

南北朝時代の仏教諸派

2007/5/31(木)


3.地論学派
 
 世親(Vasubandhu)の『十地経論』十二巻を所依の論として研究する大乗学派を地論学派という。6世紀初頭、『十地経論』訳出を契機として成立し、7世紀初頭まで北朝において流行した。

 『十地経論』は、北魏の永平元年(508)から同四年にかけて、勒那摩提(Ratnamati;宝意)*3)・菩提流支(Bodhiruci;道希)*4)・仏陀扇多(Buddha1qnta;覚定)*5)らによって訳出された。しかし、訳出の際に菩提流支と勒那摩提とが教理上の見解を異にしたため*6)、両師それぞれの伝承が相違し、南道派と北道派に分かれる原因となった。当時、相州から洛陽に入るのに南北二道があり、勒那摩提の説を承けた光統律師慧光が南道にいたため慧光の系統を南道派といい、菩提流支の説を承けた道寵は北道にいたため道寵の系統を北道派という。
 
 地論宗は、『十地経論』のほかに『楞伽経』『大集経』『起信論』などによって如来蔵縁起説を唱える。この点は、両派に共通して言えることだが、摂論宗の説と共に比べると、両派の説は次の点において異なる。
 
・南道派(勒那摩提─慧光) = 第八阿黎耶識を「真識」とみて八識説をとる。(宋訳・四巻楞伽と共通)
・北道派(菩提流支─道寵) = 第八阿黎耶識を「妄識」とし、第九菴摩羅識を立てて、これを「真識」「清浄識」とする。(魏訳・十巻楞伽と共通)→北道派は摂論学派と合してゆく
摂論宗(真諦) = 第八識阿梨耶識を真妄和合識とし、第九菴摩羅識を立てて「浄識」とみなす。
 
 北道派の系統には、道寵の門下に僧休・法継・誕礼・牢宜・志念などがいるが、あまり振るわなかったようで、その事跡も殆ど明らかではない。隋代の初頭、すなわち曇遷による『摂大乗論』の北地伝播後、摂論宗が北地に弘まると、摂論宗は第九菴摩羅識を浄識とする九識説に立っているために、北道派の説と一致し、このため北道派は摂論宗に合して消滅することとなった。
 それに対し、南道派の慧光の門下には、僧範・道憑・慧順・霊潤・道慎・曇遵・曇隠・法上などがいて逸材が多く、大いに隆盛をみた。なかでも法上とその弟子の浄影寺慧遠は南道派教学の確立者である。ただし、慧遠の晩年には、地論教学における第七識の性格の不徹底さを、摂論教学が説く第七阿陀那識で補おうとするため、摂論教学的に解釈するようになり、孫弟子の霊潤の頃になると、摂論宗に転向する地論学者が多くなった。摂論宗の勢いが盛んになると、学派としての地論教学は勢力を弱め、天台教学(天台大師智顗;538-597)や三論教学(嘉祥大師吉蔵;549-613)、華厳教学(至相大師智儼602-668)に形を変えていった。
 
  光統律師慧光 (468-537)は、北魏から東魏にかけて活躍した。インド僧仏陀禅師について出家、菩提流支・勒那摩提による『十地経論』訳出の際にはその会座に列なる。慧光は両三蔵の教説に通じて勒那摩提の説を承け、自ら注釈を造って地論宗南道派の祖と仰がれる。『四分律』の研究講讃にも意を注ぎ、『四分律疏』120紙を撰して、後世に四分律宗の祖ともされる。『四分律』は仏陀耶舎の訳出以来、法聡・道覆らによって研究されていたが充分ではなく、慧光に至って初めて研究が盛んになったものであり、彼の北地における『四分律』普及の功績は大きい。後に『華厳経』を研鑽し『華厳経疏』を著した。華厳学派第二祖の智儼は慧光の疏を見て別教一乗無盡縁起を理解したという。また、教判として漸教・頓教・円教の三教判を立て、華厳学派の五教判の基礎を築いた。このほか、因縁・假名・誑相・常宗の四宗判も立て、華厳経と涅槃経とを常宗の範疇としており、この教判は地論宗南道派の伝統として浄影寺慧遠にも継承され、北地において広く行われた。北魏から東魏になると、朝廷で重んじられ、国統となった。僧官盛度の充実を図って『僧制十八条』を製し、光統律師と称された。著書に、『玄宗論』『大乗義』『律義章』や、華厳・勝鬘・遺教・仁王・四分律・温室・涅槃・維摩・十地経論・菩薩地持経論などの注釈書があったという。門下には華厳を講説した人が多い。
 
 僧範(476-555)は、諸学に通じた人で、29歳のときに『涅槃経』を聴いて悟り、出家したとされる。しかし、彼,が最も意を注いだのは『華厳経』であった。彼には『華厳疏』5巻の著があり、その『華厳経』十地品第六現前地を講義した際には、一羽の雁が飛来して聴法したという。
 
 道憑(488-559)は、はじめ『維摩経』を誦し、のちに『涅槃経』『成実論』を学んだ。慧光が戒律を宣揚するのを聞いてその門下となり、十年間の修学後、慧光のもとを辞して法を弘めた。実践的な僧でもあり、洛陽少林寺で「摂心」して習禅に励むと同時に『十地経論』『涅槃経』『華厳経』『四分律』などを流暢に講義、「憑師(道憑)の法相と上公(法上)の文句とは一代の希宝なり」といわれた。
 
 慧順(487-558?)は、慧光の門下。はじめ儒教を学んだが、『涅槃経』を聴いた後に25歳で慧光の門に投じた。『十地経』『菩薩地持経』『華厳経』『維摩経』を講じ、各々に疏記を作ったという。
 
 曇遵(480-564?)は、慧光の門下。幼くして出家したが、容貌が美しく、戒律を犯すことを怖れて一度還俗している。23歳で再び戒を受けて慧光の弟子となり、「大乗の頓教、法界の心原」を理解し、勝れた解釈を行ったという。『続高僧伝』によれば曇遵は注釈書を著わさなかったと伝えるが、法蔵の『華厳経伝記』では、彼の著作として『華厳経疏』7巻があったと記している。
 
 安廩(507-583)は、慧光の門下。「性、老荘を好」んだ人。25歳で出家、光融寺容公に諸経論を学び、慧光から『十地経』を学び、また禅を究めた。魏では12年間『四分律』を主に講じたが、梁の泰清元年(547)に南地へ移り、武帝から厚遇を得て天安寺に住し、『華厳経』を講じた。陳の永定元年(557)には内殿に入り、さらに勅命によって耆闍寺に住した。地論宗南道派の中で『華厳経』の南地伝播を果たしたことの明らかな人としては安廩が初めてである。
 
 曇衍(503-581)は、慧光の門下。18歳で慧光に戒を受け、三年間仏学研究に専念、23歳で正式に出家。戒律に厳格で、維摩経勝鬘経を日に一度唱え、臨終には彌勒佛を念じた。法蔵『華厳経伝記』では、彼を慧光没後における華厳大教の再興者とし、『華厳経疏』7巻の著作があったとされるが、現存しない。
 
 法上(495-580)は、慧光門下。初め『法華経』を研鑽講説していたが、慧光の弟子となって『十地経論』を講じ、東魏北斉二国の統師となり、北斉の文宣帝の厚遇を受けて大統となった。著作に『増一数法』40巻、『仏性論』2巻、『大乗義章』6巻、および『法上録』と通称される『衆教録』1巻があったほか、『十地経論義疏』が現存する。弟子に法存・浄影寺慧遠がいる。
 
 法上の弟子の浄影寺慧遠(523-592)は、敦煌の人。13歳のときに僧思禅師の弟子となり、16歳で湛律師に学び、法上に従って具足戒を受け、曇隠に『四分律』を聞いた。北周武帝の廃仏の際には激しい抗議を行い、法上や曇衍に「護法菩薩」と感謝されたという。隋が興って文帝が即位すると、慧遠は洛州の沙門都に任じられ、後に都に召されて曇遷から『摂大乗論』を学び、浄影寺に住した。門下700余人。著書に『大乗義章』14巻があって現存している。このほか『続高僧伝』では『華厳疏』7巻があったという。法蔵の『華厳経伝記』によると、慧遠は晩年に華厳経の注釈を行ったが、十回向品まで筆を進めたところで絶筆したと伝えられているが現存しない。
 
 道憑の弟子の霊祐(518-605)は、慧光に学ぼうとしたが慧光は既に示寂しており、道憑に就て『十地経論』を学んだ。後に曇隠から『四分律』を学んだ。そのほか『雑心論』『成実論』も学んでいる。著書に『華厳疏』および『華厳旨帰』合わせて9巻など、総じて100余巻があったと伝えられる。弟子に呱淵 (544-611)がいるが、呱淵も華厳経研究者として知られる。
 
 曇衍の弟子の霊幹(535-612)は、14歳で曇衍の門に投じ、18歳で『華厳経』『十地経』を講じて賞賛されたという。専ら『華厳経』を奉じたようで、常に本経によって「蓮華蔵世界海観」および「弥勒天宮観」を行ったと伝えられる。甥の霊辯も『華厳経』を弘めた。
 
 霊辯(477-522)は、曇遷と霊幹の弟子。文殊信仰を通して大悟、4年の歳月を費やして神亀三年(520)に『華厳経論』100巻を完成させた。本書は散逸しており、極一部分が他の引用によって知られるのみであるが、一と多との一体性を根本真実として確信していたことは明らかである。彼の没後に弟子の道昶・霊源・曇現などによって浄書され、後に『一切経』に加えられて山西省方面に広まり、永淳二年(683)に至って終南山至相寺の通賢などが長安や洛陽に流布させた。また、彼は神亀元年(518)勅命によって宣光殿で『大品般若経』を講じて後は、『華厳経』と『大品般若経』とを夏冬交互に講義したという。なお、華厳第二祖の智儼(602-668)が就学した「辯師」とは霊辯のことを指すと思われる。
 
 
(645)に帰国して、新訳の唯識教学を伝えるや、摂論教学の法系は絶えてしまった。