南北朝時代の仏教諸派 3

南北朝時代の仏教諸派

2007/5/31(木)


4.摂論学派
 
 陳文帝の天嘉四年(563)に、真諦三蔵(499-569)によって無着の『摂大乗論』三巻、および世親の『摂大乗釈論』十二巻が訳出され、この両論を中心に南地の真諦門下に形成された学派。門下に慧愷(518-568)・法泰・道尼などがいるが、当初は三論学の隆盛と真諦訳唯識論書そのもののインド的性格に阻まれて、なかなか伝播せず、南地以外に広まった形跡は無い。

 ところが、建徳三年(574)、北周武帝の破仏が起こり、北地の地論学派の学僧が一団となって建康を中心とする南地へ逃れて来て状況は一変した。彼らは真諦門下と接触する機会をもつこととなり、地論学者たちによって摂大乗論研究が進められるようになった。後に隋が天下を統一すると、彼らは相次いで北地へ帰還し、摂大乗論研究が北地に伝播した。その多くは地論宗南道派から摂論学派へ転じていった人たちであることが注目される。そして、ほどなく摂論学は仏教学の中心的地位へと伸し上がるのである。
 
 曇遷(542-607)は、地論宗南道派から摂論学派への転向の嚆矢となった人。曇遵から地論を学び、その後は林慮山の浄国寺に身を潜めて『華厳経』『十地経』『維摩経』を究めた。北周の破仏を逃れて建康へ移り、道場寺に入って唯識を講じ、荊州刺史蒋君の家で摂大乗論を得て唯識を理解した。隋が興起するや、直ちに北地に帰り、その旅の途中に彭城で『摂大乗論』『楞伽経』『起信論』を講義した。これが摂論学の北地初伝となる。開皇七年(587)、慧遠・慧蔵・僧休・宝鎮・洪遵の五大徳と共に長安へ赴き、大興殿で文帝に謁した。そうして勅により大興善寺に住し、多くの学僧を集めて講義がなされ、摂論宗北地開宗の祖となった。このとき二十才年長である浄影寺慧遠もこの席に連なり、晩年の慧遠の教学に変化を与える直接的契機となったと考えられている。著書に『摂論疏』10巻、『亡是非論』、楞伽経や起信論などの疏、『華厳明難品玄解』など、20余巻があったという。『亡是非論』は華厳教学の性起思想に称うとして、華厳第二祖智儼が全文を引用している。曇遷の法系に列なる人として、曇延・曇衍・霊辯・浄影寺慧遠(以上既述)など、著名な人物が頗る多い。
 
 曇衍の弟子に法常(567-645)がいる。彼は曇衍のもとで初めは涅槃学を修め、後に『摂大乗論』の研究をして名を挙げる。その後も『涅槃経』を最も重んじていたというが、彼には『華厳経』の講義を行い注釈書も作ったと伝えられる。
 
 靖崇(537-614)も、もとは北地の地論宗南道派の人であったが、南地で真諦の弟子である法泰について『摂大乗論』を中心に唯識教学を学び、その成果を北地に伝えた。彼の系統は智凝(562?-609?)から僧弁(566-642)へと次第した。このほかにも、地論宗南道派から摂論教学に転向して北地にこれを伝えた人としては、法侃や道奘などが知られる。
 
 道尼は、もともと真諦門下であるが、彼も北地へ摂論教学を伝えた人である。彼は開皇一〇年(590)に勅によって長安大興善寺に住した。真諦三蔵は『摂大乗論』とともに『倶舎論』の伝訳にも力を注いだが、その気風をよく承け継いでいる。その学風は道岳(568-636)に継承された。真諦によって中国に初めて体系的に伝えられた唯識教学は、これらの摂論学派門下によって、盛んに研究されたが、多くの場合、先に定着した地論教学的素養に影響され、折衷的傾向が強かったようである。このような時代に成長し、やがてインド留学を決意した玄奘(602-664)が、貞観一九年