16-04 一心三観 ~慧思から智顗へ~

16-04 一心三観 ~慧思から智顗へ~

2006/10/30(月)


 湖南省衡山県の北方にそびえる衡山山脈、その主峰の衡山は別名を寿岳とも南岳ともいい、周囲400キロ、山麓をまとわりつくように流れる湘江とあいまって、雄大な眺望を織り成している。

 慧思(えじ)は四十余名の弟子を引きつれて、その南岳へ去った。陳の光大二年(569)のことである。別れにのぞんで慧思は智顗(ちぎ)に同行してはならなぬと釘をさしている。また、こうも告げている。「そちは陳朝と同じ陳氏の出じゃ。よくよく縁があるのだから、都に上るがよい。かならずよいことがあろう。」

 やむなく智顗は師の厳しい訓戒を胸に秘め、大蘇山をあとに陳の都建康(現南京)をめざして東下する。彼が携えたものは、慧思から伝授された一心三観である。この法華三昧によって証される心要は、かつて慧思が師の慧文(えぶん)から受けたもの。インドの大論師龍樹の『大智度論』に説く三智と『中論』の三諦(さんたい)とを合わせて観想するものをベースに、慧思が『法華経』の円融の理法を導入して編み出したものである。智顗は師のものをさらに深め、天台実践論の骨子に仕立て上げるが、それはのちのことである。

 智顗が十歳のとき、広州経由で建康(けんこう)に入った西インド出身の真諦(しんだい)は、侯景の乱から陳朝の成立に至る混乱にあい、各地を流浪しながら『大乗起信論』ほか、貴重な経論を訳出する。智顗が慧思と分かれて健康に向かった頃には、広州の制旨寺で『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』や『倶舎論ゲ(くしゃろんげ)』『倶舎論義疏』などの訳出を終えていた。真諦の弟子慧鎧(<りっしんべんに豈> えがい)らは師の漢訳による新しい仏教、すなわち唯識教学を建康に移植しようとしたが排斥を受け、もう一人の弟子法泰の試みも失敗に終わった。三論教学をはじめ、衰えたりとはいえ成実学派など、旧来の仏教が幅を利かす建康の仏教界、そこに登場した若き智顗の苦闘がはじまり、諸学派との相克を通じて天台教学の熟成が進められる。

引用・参照
・藤善真澄・王勇 『天台の流伝 智顗から最澄へ』 山川出版社 p63~