欲望と仏教

欲望と仏教

2013/9/3(火)

 

■ はじめに

 「縁起、無常、無我」よりも、「少欲知足」と「今、ここ」の二つの言葉にブッダの悟りが言い尽くされているように思う。

■ 「少欲知足」の欲

 少欲の「欲」の意味が重要である。欲は欲求(生理的欲求)と欲望(社会的欲望)とに分かれる。ブッダの時代、農業生産力の増大を背景に都市化が進み、物資が溢れて、欲望が解放された。この欲望が苦の原因だとブッダは見抜いた。ブッダは欲望に囚われないで、欲求に甘んずることを選んだ。これが「少欲知足」の意味である。
 
■ 「今、ここ」とニーチェの「超人」

 「今、ここ」は、一切の未来と一切の過去から断絶することである。過去の延長として、また過去の行為の結果として現在があるのではない。また、現在の行為によって未来があるのではない。「今、ここ」を淡々と生きてゆくこと、これがすべてだ、とブッダは見抜いたようである。 

 「今、ここ」はニーチェ永劫回帰、そして超人の思想に似ている。
 ニヒリズムを克服するとは「将来における予想や過去における結果にとらわれずに、常に「今」という瞬間を全力で生きる」ことです。常に自分の人生を全肯定(良い、悪いに関係なく全てを受け入れる)して「現在」に全てをかけて生きるということです。瞬間を全力で生きる」ことです。
 しかし、仏教については諦観だとしてニーチェは否認しているようですが、前提とする時代把握は同じと思われます。

■ 智慧と修行

 ブッダの悟りを考えるときに、<悟った結果得た智慧>と<その智慧に至る道>とに分けて考える必要がある。これまでは前者の<悟った結果得た智慧>に重点が置かれていたように思う。むしろ<智慧に至る道>こそより重要であると考える。

■ 富士登山

 富士登山に譬えてみよう。智慧というのは登頂した後に頂上から見えたものである。智慧に至る道というのは登山道である。ただ登ればいいというものではない。富士山は日本一高い山で標高は3000mを超える。神聖な雰囲気の漂う山である。先ず、登る前に気持ちを整え、身支度をする必要がある。重要なのは登るルートと登り方である。

 1合目からゆっくりと登り始める。そのうちに身体が慣れる。反面、疲れも出てくる。頂上はまだ遠い。ただひたすらに歩くしかない。いつしか仲間との会話も途絶えて、ただ一歩に集中するようになる。残りがどれくらいあるのかも考えなくなる。時には雑念も湧いてくるだろう。休憩時には仲間との語らいもあろう。しかしいつの間にかまたその一歩一歩に集中している。やがて頂上に到る。

■ 頂上

 その頂上から見えるものはなんであろう。決して美しい地上の風景ではない。ブッダの言葉にある。「見よ。世間は燃えている。欲望の炎で燃えている。」 そこに見えるのは燃えている世間である。登山は単に物理的に高い位置に身を運ぶことではない。心身を整えることが目的である。そのことによって今までそこに自分もどっぷりと浸かっていた「燃えている世間」を客観的に見ることができるようになる。

 このとき、「少欲知足」、「今、ここ」の二つの言葉の説明は不要になっている。これまで仏教とは「縁起、無常、無我」である、というような理解があったように思う。しかし、これは山に登らずして、ブッダの見たものを地上から推測していたに過ぎないのではないだろうか。