少欲知足とブッダの悟り

少欲知足とブッダの悟り

2013/8/23(金)

 

■『遺教経(ゆいきょうぎょう)』
 
 少欲知足は『遺教経(ゆいきょうぎょう)』という経典に説かれています。『遺教経』はブッダが入滅に際して、弟子たちに与える最後の言葉を集めたものといわれています。禅宗では、枕経の一つとして大事にされているようです。

 多欲の人は利を求めること多きが故に、苦悩も亦多し。
 少欲の人は求なく欲なければ、則ち此の患いなし。

 不知足の者は富めりと雖も而も貧し。
 知足の人は貧しと雖も而も富めり。

■ 少欲と無欲

 ブッダの時代の出家者は全てを捨て去ったのではありません。無欲ではなく少欲だったと考えることができます。托鉢の「鉢」と身に纏う「糞掃衣」といわれる袈裟の所持は許されていました。托鉢で得たものは共同生活をしている出家者の間で平等に配分されました。出家者は少欲の生活をし、足を知っていたのです。無欲と少欲とはどのように異なるのか。少欲の意味をもう少し考えなければなりません。

■ 自然的欲求と社会的欲求

 欲は二つの種類に分けられます。自然的欲求(自然の生理に基づくもの)と社会的欲望(社会的に作られるもの)です。例えば幼子が母乳を求めるのは自然欲にあたります。成功者が豪邸を欲するのは社会欲にあたるということができるます。

 ブッダは自然的欲求を否定しません。否定したのは社会的欲求です。ブッダの時代は農業生産が拡大し、都市ができ商工業も発達し、遠隔地間の交易も急速に発達してゆこうとする時代でした。裕福な商人の富は国王やバラモンさへしのぐ勢いだった。彼らはより多くの富を求め、また豪邸に住み奢侈品を求めた。

■ 燃えている

 ブッダは欲の渦巻く当時の社会を見て「燃えている」と表現した。人々の社会的欲望は際限なく肥大し、求めても求めても満足の得られない呻きに満ちていた。このときブッダには欲の変質が見えたのだと思う。その時代新たに登場してきた社会的欲望の存在に気づいた。この社会手欲望に苛まされるのが苦である。

■ ブッダの悟り

 この社会的欲望に対処するにはどうしたらよいのか。単なる禅定だけでは足りなかった。苦行によって押さえ込むこともできない。社会的欲望の存在に気づいたときブッダの悟りは完成した。
 ブッダの悟りの基本には透徹がある。透徹したときブッダには涅槃寂静の世界が訪れた。少欲というのは欲の量の問題ではない。社会的欲望を放棄し、自然的欲求にのみで生きることに意義を見いだすことである。出家者の共同生活の意味はここにある。