「苦楽中道」の積極意味

「苦楽中道」積極意味

2013/8/25(日)

 

 伝統的なブッダの伝記(仏伝)によれば、縁起説がブッダの悟りの内容であったとされる。ブッダは解脱をもとめて、悦楽と苦行の中間の道(中道)をとり、禅定に励んだ。そして、禅定の中で得た知見が、ブッダを安らぎに導いた。その知見の内容が、苦しみとその原因に関する「縁起」の理法であったとされる。

 苦楽中道は経典に次のように述べられている。

 「修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。・・・一つはもろもろの欲望において欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行ないであり、高尚ならず、ためにならぬものである。他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。」「サンユッタ・ニカーヤ」

 苦楽中道は当時の六師外道の思想家たちに対する批判である。「楽」はプーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、パクダ・カッチャーヤナのアージーヴィカ派の思想家を想定している。また、「苦」はジャイナ教を想定している。『沙門果経』はディーガ・ニカーヤ(上部)に属する比較的古いとされる経典である。

 マッカリ・ゴーサーラは、アージーヴィカ派の祖である。徹底した運命論、決定論を唱え、意志に基づく行為や、修行による解脱を否定した。行為には、運命を変える力がない。行為に善悪はなく、その報いもないと考える。当時、支配的な思想であった「業」の思想を否定する。

 人間のいかなる行為は善にも悪にならないとして、因縁や業を否定し道徳無用論を説いた。
プーラナ・カッサパは、行為に善悪はなく、行為が善悪の果報をもたらすこともないと主張した。傷害・脅迫・殺人・強盗・不倫・虚言などを行ったとしても、悪にはならない。悪の報いはない。施し・祭式・節制・真実を語ることを行ったとしても、善にはならない。善の報いもないと説いた。

パクダ・カッチャーヤナは七要素説を説いた。人間は七つの要素、すなわち地水火風楽苦と生命(あるいは霊魂)からなるもので、これらは作られたものではなく、何かを作るものでもない。不動、不変で互いに他を害することがない。殺すものも殺されるものもなく、学ぶものも教えるものもいない。たとえ、※鋭利な剣で頭を断っても、誰も誰かの命を奪うわけではない。剣による裂け目は、ただ七つの要素の間隙にできるだけである。行為に善悪の価値はないとする。


※[四諦・八正道]
 修行憎らよ、真理の体現者のさとった中道とは……それはじつに〈聖なる八支よりなる道〉である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行ない、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。……
じつに〈苦しみ〉という聖なる真理は次のごとくである。生まれも苦しみであり、老いも苦しみであり、病いも苦しみであり、死も苦しみであり、………
じつに〈苦しみの生起の原因〉という聖なる真理は次のごとくである。それはすなわち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。
 じつに〈苦しみの止滅〉という聖なる真理は次のごとくである。それはすなわち、その妄執の完全に離れ去った止滅であり、……。
じつに〈苦しみの止滅にいたる道〉という聖なる真理は次のごとくである。これはじつに聖なる八支よりなる道である。すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば正しい行ない、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。
『サンユッタ・ニカーヤ』56.11(PTS Text,SN.Vol.V,pp.420-424)