31-16 「無記」の一般的な理解

31-16 「無記」の一般的な理解

2006/9/20(水)


 「無記」とは、形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ることである。無用な論争の弊害からのがれ、苦しみからの解放という本来の目的を見失わないためにとられた立場である。


 『マッジマ・ニカーヤ』(中部経典)第63経「小マールンキャ経」は、世界が永遠であるか否か、有限であるか否か、生命と身体は同一のものであるか否か、人は死後存在するか否かという問題について、ブッダが何も語らなかったことを「毒矢のたとえ」によって巧みに表現している。

 毒矢にいられ、苦しむ人を前にして、医者が、患者の身分、階級、弓の種類、矢の種類などについて知られない間は治療しないとしたら、その人は死ぬ。

 世界が永遠であろうとなかろうと、有限であろうとなかろうと、生命と身体が同一であろうとなかろうと、人が死後存在しようとしまいと、人は生まれ、老い、死に、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩む。

 ブッダは、現実にそれらの苦しみを止滅することを第一義の目的とした。あくまでこの目的を見失うまいとするのが「無記」の立場である。ここには、心の病の医者としてのブッダの側面が如実に現れている。

参照・引用
http://lapc01.ippan.numazu-ct.ac.jp/b/muki.htm