No.16 輪廻の思想(その2)

No.16 輪廻の思想(その2) 

 

二.輪廻からの解脱

  前五、六世紀ころになるとシュラマナ(沙門)と呼ばれる新しい宗教者・思想家が多数輩出してきた。彼らは家族を放棄し、一個所に定住することなく遊歴し、生涯にわたって禁欲して独身を守り、乞食によってのみ身を養い、苦行と瞑想に没頭した。ブッダも沙門の一人にほかならなかった。

  輪廻は無始であり、絶え間なく連続する。ウパニシャッドの哲人たちが、この輪廻から解脱することを求めるようになって以来、アートマンを業の束縛から解放し、輪廻からの開放を実現することが、当時、各地を遊行する沙門たちの人生の最高目標目標と考えられるようになった。

1.ウパニシャッドにおける解脱

  輪廻の鎖は、人が自らの内面にアートマンを見出したときに断たれる。アートマンの認識を妨げているのは、子孫や財産などを得たいという願望、さまざまな現世的なものに対する欲望にほかならない。人は欲望にしたがって物事を意図し、意図のままにそれを行い、そして行いに応じた果報を受けつつ、一つの生から次の生へと輪廻をつづけているのである。これに対し、欲望を余すところなく捨て去り、アートマンに専念するものは、自と他との二元性を離れ、ブラフマンと一体のものとしてアートマンを自らの内面に直感する。このとき彼の身体は、あたかも蟻塚の上に遺棄された蛇のぬけがらのようなもので、彼は生死をわたり越え、ブラフマンそのものになるのである。

2.ジャイナ教における解脱

  ブッダと同時代に生きてジャイナ教の開祖となったマハーヴィラは、輪廻と業報と不滅の霊魂の存在を信じた。人の行為は微細な物質であって、本来は輝かしくかつ自由な霊魂を汚染するものである。悪行は善行よりも粘着力が強く、霊魂を汚す度合いも高い。だから沙門は善行によって悪行を駆逐し、さらに無行為によって善行をも捨てなければならない、という。意志の自由を信じ、苦行によって霊魂に付着した行為の汚れを減すれば、一種の天界において至福を得る。

 この派は苦行を強調することとともに、極端までの不殺生を勧めたことでも有名である。 身・ロ・意の中、身による行為を重んじるジャイナは自らの行を<苦によって楽を得る>と主張し、意による行為を重んじる仏教は<楽により楽を得る>と主張した。共に禅定を解脱への最終手段と認めながら、ジャイナはあくまでも身体の苦行主義に徹していて、その禅定は苦行の一面でしかありえなかった。そして、断食と禅定と身体放捨とは一体となって、最終解脱のクライマックスへと向かうことになる。苦行の究極は断食死にあり、これがジャイナ教の修道論の最大の特徴である。肉体の死によって、霊魂を束縛している最大の障害が減し、霊魂は本来の純粋生命としての機能を図復し、解脱者の世界へと一瞬のうちに上昇するのである。仏教は解脱はこの世で達成されるとするのに対して、ジャイナ教では死後に達成されるとする。


三.仏教における解脱

1.仏教の出発

 ブッダは、成道に際して、「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。 もはや再びこのような生存を受けることはない。」といったと伝えられている。また、他の経典で「すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱皮してすてるようなものである。」といっている。輪廻的生存の超越は、ブッダの課題でもあった。

 ブッダにおいて、輪廻的生存の超越は、まず苦の生存の超越の問題として把握された。輪廻的生存の苦は、現実には生存の苦しみとして現れるからである。インドにおける『厭世観』は、すでにウパニシャッドの哲人ヤージュニャヴァルキアにその萌芽のあることが指摘されている。苦しみそれ自体は主観的に感受されるものであることは否定できないが、苦しみの原因が何であるかについては解釈がわかれる。

 万有がアートマンにほかならないというウパニシャッドの哲学の立場からは、苦しみは一般に無視されることになるが、現実に苦しみのあることを直視して正面から問題にしようとするならば、ヤージュニャヴァルキアのように「アートマン以外のものは苦しみである」と言わざるをえないであろう。そこにはすでにアートマンアートマンならざるものとの対立が見られる。

 仏教はヤージュニャヴァルキアに見られるこのような思想構造を継承しつつ、しかもウパニシャッド哲学とは立場を異にして、アートマンそのものはいわば括弧にいれて、アートマンならざるところの現実の人間存在が苦しみであると説く。

 苦とは、「自己の思うとおりにならないこと」ということができる。苦は何にもとづいて生ずるか。欲望にもとづいてである。なぜなら、欲望は達成され難いことが多く、たとえその欲望が達成されても再び別の欲望が生じ、永遠にその繰迩返しが続くからである。

 その欲望の根底に執着がある。欲望がつねに直接的であり、したがって一過性なものであるのに対して、執着の根は誠に深く、動じがたい。この執着が混沌の底に沈みながら居座り続げて機をうかがいつつ個々のの欲望を引き出し、生み出してくるといえる。そのようななんとも不気味としかいいようのない執着のうち、最も強烈であり頑固であるのがまさに我執である。それは執着のさらに根底を自我が固めているからである。このような執着-我執-自我というルーツの制御、捨離、否定、断絶、超越が無我ということである。

 インド思想史は、人間存在の中心にウパニシャッドにおいて確立した本体としてのアートマンあるいは霊魂の存在を認めるか否かによって、二つの思想体系に分けることができる。積極的にアートマンあるいは霊魂の存在を肯定したのは、ヒンドゥー教ジャイナ教の哲学諸体系である。それに対して、無我説を掲げて、形而上学的・実体的なアートマンの存在に対しては判断を中止して沈黙するかあるいは否定する伝統を形成したのは仏教である。

2.無我論の展開

 仏教は、自らの身体を人格的な実体とみなすこと、あるいは自分自身の身体のうちに何らかの恒久不変の実体の存在を見出すことを「自身についての誤った見解」として厳しく斥ける。これこそが「無我論」を構成する根本テーゼということができる。仏教は超越的 なアートマンについては前述したように判断を留保しているが、恒久不変の存在であるならば、経験世界を構成する一切の事物は非恒久的であるがゆえに、少なくともこの日常的な世界の内にはアートマンと呼ばれうるものは存在しないと言明する。そして個人存在の根源的中心としてのアートマン=自己については、それが実体として主張される限り徹底的にその存在を否定しようとした。

 仏教においては、人間の個的存在は色・受・想・行・識という五つの要素からからなる集合体として表象されている。ただし、それは単なる諸部分の総和ではなく、それら諸要素が相互依存酌に結びついた一個の有機的全体なのである。そしてこの有機体としての全体が、実体的な主体の介在なしに、自律的に外的な環境に向かって活動するのである。このとき、認識主体をどめように考えるかが問題となるが、仏教は認識主体とは「瞬間ごとに生成消滅を繰り返す意識(刹那滅)」それ自体とする。

 しかし、瞬間ごとに生成消滅を繰り返す意識などというものが、果たして本当に認識主体たりうるのか。実体的な主体=アートマンを想定することなしに、いかにして「人格」の同一性・連続性を説明しうるのか。その点を説明したのが、経量部が言い出し、唯識学派に至って、「識の相続」説として完成された説である。

 個人存在は、心や様々の心作用といった精神的な存在要素(ダルマ)、また肉体を形づくる物質的存在要素、さらに行為にかかわる存在要素などが、相互に連関して構成される一種の有機体と考えられている。これら存在要素は瞬間ごとに生成消滅を繰り返すのであるが、それらは種々の因果関係で結ばれて個人存在の時間的相続を形づくるのである。それゆえ、そこに恒常不変ののアートマン(自己)といった実体を認める必要はない。

 ところで、このような存在要素の流れの中で、特に「心(意識)」だけは断絶することなく無限の過去から永遠の未来にまで継続的に生起し続けて個人存在における意識の流れ、「心相続」を形づくると考えられている。そして、この意識の流れを形成する各瞬間ごとの意識は、ある種の因果関係で結びついている。

 さらに後の唯識学派になると、各瞬間ごとの認識の内容を決定する潜勢力を保持する潜在意識(アーラヤ識)の存在を認め、これが継続的な相続を形成すると考えられるようになる。この潜在意識は、無限の過去から繰り返し習慣づけられた『わたし』というものを仮構することの潜勢力の種子を保持しており、この種子が現勢化すると自我意識となると説明する。

 ところで、アラヤ識は無限の過去からの基因であり、あらゆる存在の依り所でありかつあらゆる存在のうちに内蔵されている。したがって、あらゆる生存(迷い)、そして輪廻の根拠でもあるが、悟り(解脱)の根拠ともなるのである。

【参照・引用文献】
岩波講座 東洋思想 『インド思想』1~3