No.15 輪廻の思想(その1)

No.15 輪廻の思想(その1)

2006/3/14(火)


一.輪廻の思想の成立とその問題

1.インドにおける輪廻思想の成立

 インドにおげる哲学的思索は、早くもインド最古の文献である『リグ・ヴェーダ』において、豊かに芽吹いている。 『リグ・ヴェーダ』の成立年代は、定かではないが、およそ紀元前一二〇〇年を中心に作成・編纂されたものと推定される。

 人の死後の運命はヴェーダ期においてどのように考えられていたか。初期ヴェーダ文献によれば、ひとは死後に天上の楽園にいくという楽天的な見解が一般的である。そして、楽園において彼は生前に自分の行った祭式と布施といった善き行為の果報と出会い、それを我がものとして楽しむことができる。ヴェーダ文献では、善き行為とは、第一義的には正しく遂行された祭式儀礼の行為とその果報にほかならない。しかし、このような「善行」の果報・効果はかならずしも無限ではなく、時とともに消滅するものという考えかたは、ヴェーダ文献の各所にみることができる。おそらくこのような考えかたの延長の上に、ブラーフマナ後期に登場した「再死」の観念がある。

 ただし、この再死は、ブラーフマナにおいては、この世での「再生」としては理解されてはいない。あの世で再死したあと、死者がいずこに行くのかについては不明のままである。再死の概念は究極に行くべき不死の世界(天界、太陽界、ブラフマン)の対立概念として、克服すべきものとして述べられるに留まっている。

 輪廻思想の起源については確実なことはが言えないが、それが明瞭に説かれるのは初期ウパニシャッドにおいてである。ウパニシャッドにおいては、「神々への道」(デーヴァ・ヤーナ)と「祖霊への道」(ピトリ・ヤーナ)とが語られている。前者への道を歩むものは、空間・時間の光にみちた道を通って究極において至高の世界ブラフマンヘと至る。ウパニシャッドにおいて確立したブラフマンの概念は、存在論的には宇宙の根本原理であり、実践論的にはひとが究極的に到達すべき光と至幸の世界である。

 しかし、後者の道を歩むものは、光に欠けた暗い道を通って祖霊の世界に至り、そこから身にしばらく留まったあとにふたたび地上へと戻る。すなわち地上での転生への道程である。地上での転生が初めてここに明瞭に打ちだされている。このような死と生の繰り返しがすなわち輪廻であり、輪廻思想の最初の成立がここに見られる。

 この二つの道のいずれにいたるかの条件は、すでに地上において与えられている。すなわち、ブラブマンに至る「神々への道」に定められるものとは、「かように知るもの、そして、荒地にあって苦行を信として信奉するものたち」であり、いつぽう、地上での転生に至る「祖霊への道」を歩むものとは、住地にあって「祭式と善行の果報と布施の果報を〔信として〕信奉するものたち」である。

 このウパニシャッドにおいてふたつの道が対立並置されていること、そして「住地」と「荒地」の対立概念からみて、ここの箇所は日常的な祭式行為と非日常的な場での秘義的知識とか対置されているものとみるべきであろう。

 ここに対立して打ち出された二つの方向、すなわち、転生、再生にみられる生命の循環と、一方、その循環から離れて至高の世界へ超越する方向との峻別が、古代インド思想の死後の運命観を規定する。このうち、生死の操り返し、すなわち循環する生命のありかたは、これ以後に好ましからざるものとみなされてゆくようになる。

 ここでは、循環し回帰する生命というヴェーダ祭式思考の重要概念は、ここでは二次的なものにおとしめられている。このような思考の転換の背後には、ヴェーダ祭式思考を支えてきた行為と知との両側面のうち、行為側面の重要性が相対的に低下したこと、さらに、ウパニシャッドにおいて、行為概念が祭式行為に限定されない「行為一般」の意味に拡大して用いられるという、行為概念の転換が存在した。

2.業とアートマン

 輪廻において、死者がこの世に再生するとき、その境遇を決定するの要因となるのは、生前の行為、すなわち業(カルマ)であると考えられた。行為はその余力をあとに残し、その余力は必ず来世に結果を生ずるのである。「ひとはその行為に従い、行動に従って〔死後に〕生まれる。善き行為をおこなうものは善きものとして生まれる。悪しき行為を悪しきものとして生まれる」のである。

 この輪廻と業の思想を最古のウパニシャッドを代表する哲人ヤージュニャヴァルキアは、彼のアートマン論に結びつけた。すなわち、アートマンは認識の主体であるばかりでなく、行為の余力を来世まで担って行くものとして、すなわち来世の境遇に自ら責任を持つ行為主体として、とらえられているのである。このような彼の思想に基づいて、やがて輪廻の基体としての『微細な有機体』の観念が形成される。人が死ぬと彼を構成している粗大な要素は消滅するが、微細な要素と諸機能は身体から離れて、微細な有機体を構成する。死者の身体から出ていったアートマンは、完全に解放されて独尊するのではなく、この微細な有磯体の中にとどまる。それがアートマンを母胎に導き、アートマンは出生してくる新たな身体に宿ることになる。アートマンの輪廻はこうして説明づけられる。

$No.15 輪廻の思想(その2)に続く