ショーペンハウアーとブッダ 2

ショーペンハウアーブッダ 2

2013/9/16(月)

 

 ショーペンハウアーが世界の根本的な実在だと考える意志は、世界の最初から続く目的も意味もない盲目的な実在である。個人は表象の一つだが、意志のみが本質で表象はすべて幻想である。意志には目的がないので、生は無意味な苦しみの連続である。神に救いを求めるのは、その苦しみを一時的に忘れるための自己欺瞞であり、宗教は自分の生に根拠がないという不安を忘れるための儀式に過ぎない。救いはキリスト教のような偽善的な価値を信じることではなく、仏教のように現世が苦であることを悟り、禁欲と苦行を通じて心の平安を得ることだ。
 
 ショーペンハウアーの意思の哲学を理解するためには、カントとの関係、あるいは同時代のヘーゲルとの関係を哲学史に調べても分かってはこない。理解の鍵はショーペンハウアーが目撃した近代社会の行動原理に着眼する必要がある。その時代は産業革命の間ただ中で、私利私欲にまみれた商業主義が跋扈していた時代である。その商業主義の跋扈を哲学的に「意志」と呼んでいたと考えることができないだろうか。悲惨な近代社会のその根本原因として盲目的な意志の動きが見つかったというわけである。

 「レ・ミゼラブル」はちょうどこの時代のフランスを描いている。1本のパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンの生涯を描く。作品中ではナポレオン1世没落直後の1815年からルイ18世シャルル10世復古王政時代、七月革命後のルイ・フィリップ王の七月王政時代の最中の1833年までの18年間を描いている。当時のフランスを取り巻く社会情勢や民衆の生活も、物語の背景として詳しく記載されている。

 ジャンバルジャンは偉大なる聖人として生涯を終える。その底を流れているのは、永遠に変わることのない真実の『愛』である。ショーペンハウアーは、しかし、「神の愛」を見限ってインドの古代哲学に救いの道を求めていた。