No.02 奈良 東大寺大仏殿

No.02 奈良 東大寺大仏殿 公開しない


 南大門を抜けました。前方に見えてくるのが回廊です。回廊越しに大仏殿のおきな建物が見えます。中央の門は閉じてます。入り口は向かって左の方にあります。

 回廊の中の境内の広さには驚きます。若草山の中腹をならして造られた土地で、左が西になります。大仏は南を向いています。奈良の都平城京は左の奈良盆地の中心付近にありました。大仏殿がそれほど大きく見えません。大仏殿の高さが25m、幅が70m、奥行きが50mです。この回廊の幅も10mはあるでしょうか。先ほどの南大門の仁王像もそうですが、すべてが桁違いに大きい。中庭に下りたところでとまってください。大仏殿の後ろを見てください。今は何もありません。しかし、創建当時は、二つの七重の塔が回廊の外に立っていました。

 先ほど見てきた、興福寺には五重の塔がありましたね。こちらは七重の塔です。しかも二つです。東大寺は全国の国分寺を統括する総国分寺として、また華厳宗の本山として建立されたためこのように壮大な規模になったのです。国分寺は、全国に作られたのですが、ひとつひとつが大規模なものでした。岐阜県大垣市をはずれたところに美濃国分寺がありました。その大きさは100m四方もあり、五重塔が2つたっていました。

 では、前に進んでください。大仏の顔が見えてきましたが足元にきをつけてください。ここを見てください。灯篭がありますね。やはり大きなものです。当時の人たちはここからおまいりしたのです。お参りする場所のしるしです。当時は、仏殿は仏像を安置するところで、人は仏殿の外から礼拝しました。この灯篭はその礼拝の場所を示すものです。

 それでは仏殿の中に入ってゆきましょう。この仏殿が最初造られたのは、奈良時代です。その後、兵火に何度も会いました。そのなかでも、平家の時代の平のこれもちによる焼き討ちがありました。奈良の僧兵がもち人親王の挙兵に味方したとして、奈良に攻め入り、焼き討ちしました。

 鎌倉時代に入って、その復興が始まりました。現在残る寺院や仏像の多くが、そのとき再建されたものです。仏像の復興の先頭に立ったのが、運慶、快慶の一段でした。運慶や快慶の仏像は興福寺にもあります。北円堂の弥勒菩薩像、世親像が有名ですね。

 この大仏もそのとき、大きな損傷を受けましたが、見事に復元されています。ここの台座の蓮華の部分が当時のままだそうです。わずかながらも金箔の痕が見られます。この大仏も創建当時は全身金箔に覆われていました。また、建物も装飾が施されていました。少し、眼をつぶってみてください。
 あおによし、奈良の都の・・・

 この蓮弁の模様を見てください。いくつもの仏像が描かれています。これは、華厳経の世界観が描かれています。この大仏は、華厳経の教主、ビル遮那物です。この大きさが華厳経と密接な関係があります。国威を発揚するため大仏を作ったということもありましたが、華厳経の観点からも大きな仏像である必要があったのです。