800 鎌倉大仏 起源と歴史

鎌倉大仏 起源と歴史

 国宝の銅造阿弥陀如来坐像、いわゆる鎌倉大仏(長谷大仏の異名もあり)を本尊とする寺である。詳しくは大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)という。

 高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるにも関わらず、その草創については、開山、開基を含め不明な点が多い。のみならず、大仏自体の造像の経緯、誰が何のために造ったのかという事情についてさえ、資料が乏しく、今ひとつ明らかでない。寺の草創については、鎌倉市材木座光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。

 寺は、当初は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性(にんしょう)など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代、正徳年間(1711-1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。

大仏の造立については、正史『吾妻鏡』に暦仁元年(1238)に木造の大仏の造像が開始され、その5年後に完成したという記事がある。同じ『吾妻鏡』には、建長4年(1252)年には銅造の大仏が造られたという記事もあるが、「木造大仏」と「銅造大仏」との関係を含め、造像の経緯は今ひとつはっきりしていない。当初木造の大仏が造立されたのが、何らかの事情で滅失し、代わりに造られたのが今ある銅造の大仏だとするのが、素直な解釈であろうし、事実、それがほぼ定説となっている。

 『吾妻鏡』によると、大仏の造立には「浄光」なる僧が勧進に奔走したことになっているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られない、また、これだけの巨像が一僧侶の発願、勧進で造立されたと考えるのは不合理で、造像には何らかの形で鎌倉幕府が関与していると見られるが、そうした点についても、あまりにも同時代の史料が乏しく、推測の域を出ない。

大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていたが、室町時代(明応4年(1495)と明応7年(1498)年の2説ある)の津波で建物は倒壊し、以後、露座になっている。

[編集]
文化財
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)-像高約11メートル。鎌倉大仏として親しまれている。単に大きいというだけでなく、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として、国宝に指定されている。後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点も貴重である。角張った、平面的な面相、低い肉髻(にっけい:頭髪部の椀状の盛り上がり)、猫背気味の姿勢、体部に比して頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示している。

境内には他に徳川秀忠(2代将軍)が所持していたとされる聖観音(しょうかんのん)像を安置する観月堂、与謝野晶子の「鎌倉やみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」の歌碑などがある。