No.13 儒学から国学へ

No.13 儒学から国学

2006/3/12(日)


『近代日本思想史』第一巻

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 徳川封建支配の世界観的支柱として、元禄・享保期までの、いわば、幕藩体制の成立期ないし安定期において一世に君臨したものは、「朱子学」の世界観であった。その担い手である「朱子学派」の中心人物は、林羅山(1583-1657)であり、かれは、家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、創設期の幕府支配に参画し、官学イデオローグとして重きをなした。

 ・・・徳川封建制の支配と封建的ヒエラルヒーを理論的に擁護し正当づけるという、「朱子学派」の負ったこの任務は、「五倫」道徳が、人間の社会的結合関係の一切を貫通する永遠不易の原理であると主張することによって、現在の封建社会の人間関係および社会秩序を絶対化するという形で遂行された。具体的にいうならば、「五倫」道徳、とりわけ君臣、父子、夫婦の「上下貴賎」の不易性は、いわゆる「朱子学」の「理気の説」あるいは「天人相関」の原理によって、基礎づけられたのであった。

  すなわち、「朱子学」によれば、天地の万物はことごとく「理」と「気」よりなる。「理」は太極あるいは「誠」とよばれ、宇宙の究極の根拠であり、万物に内在する普遍的な原理であるが、それは「気」の作用によって万物として現象し、それそれ特殊的な具体的な形態をとる。「理」が人間に内在するときは、本然の性、すなわち先天的本性となり、 同時にそれは、人間の根本的な社会結合関係である「五倫」を律するところの「五常」となる。このように、「朱子学」において「五倫」道徳の不易性は、先天的本性として人間に内在している宇宙の究極的な普遍的な原理、すなわち「理」にもとめられていた。いいかえれば、人間の社会結合様式の一切を貫通する「五倫」道徳の不易性は、自然界の究極的な原理である「理」から引きだされたわけである。・・・

  「朱子学」は、「理」=「太極」の原理をもちいて、自然界と人間界を合一させ、そして自然界の秩序である天地の空間的な上下関係をもって、人間社会の価直的な上下関係を説明し、君臣、父子、夫婦の「上下貴賎」を理論的に正当化したのであった。・・・

  すでに考察したように「朱子学」的世界観は、「天人相関」「天人合一」の「自然法」的原理に立脚して、自然界の原理から人間界の現実的な秩序を引きだしたものであった。

 

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  元禄・享保期以降、幕藩体制が動揺と崩壊の過程にはいり、これにイデオギー的に対応して、「朱子学」の自然的秩序観を儒学の個別の立場から、すなわち人間的作為の立場から批判して、「古学」を形成したのが、萩生徂徠(1666-1728)あった。

  萩生徂徠によって試みられた「儒学」的世界観の転回とは、一言でいうならば、自然的秩序の論理を人間的作為の論理へ転回させたことにほかならない。・・・すでにのべたように、「朱子学」的な考え方、すなわち「自然的秩序」の論理の特質は、「宇宙的自然」と「人性的自然」とを直接に同一視する連続観ににたち、しかも前者をもって後者を基礎づけたところにあったが、徂徠学は、人間の現実的な秩序が「自然的秩序」によって基礎づけられるという考えを否定したのであった。

 すなわち「徂徠学」は、第一に「陰陽五行」のような儒教哲学の諸概念を「聖人」による「治国平天下」のための「術」、すなわち手段として把握し、第二に、こうすることによって、・・・「先王」という歴史的実在を設定し、この「先王」によって「道」すなわち「礼楽刑政」が創出されたと主張したのである。・・・「朱子学」では現実的な社会秩序が「自然法」によって基礎づけられているために絶対的であるとみなされたが、「徂徠学」では、それは「先王」「聖人」「君子」などの人間によって創出されたのであるから、相対的であり、したがって改変が可能であると考えられているのである。

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  「国学」は、折から封建経済を浸蝕しながらだい頭してきた商業資本家層を背景とし、 主として都市在住のインテリゲンツィアを担い手とする、封建制下の改良主義イデオロギ-の性格をもっていた。

 「国学」は、戸田茂睡、僧契沖、荷田春満らによって創始され、賀茂真淵(1697-1769)を通じて、本居宣長(1730-1801)によって大成され、さらに、平田篤胤伴信友らによって、発展させられたものである。

 「国学」に共通した主張は、つぎの点にあった。すなわち、封建支配のイデオロギー的用具である儒仏思想によって中世以来著しく歪曲されてきた日本人の生活信情を、それへの批判を通じて、その束縛から解放し、人生の真実を明らかにしようとしたところにあった。そして、それは、儒仏思考によって歪められた中世以来の伝統的歌学を否定し、古典そのものまでにさかのぼり、それを純粋な文献学的な手法によって、あるがままの姿においてとらえるという学問的な操作を通じて遂行された。

 本居宣長による『古事記伝』(1778)の大成は、その代表的な所産である。国学者たちのこのようなわが国古典の文献学的な研究によって把握されたものこそ、「いつわり」の「からごころ」や「ほとけごころ」に対置される「やまとごころ」であった。ここで「やまとごころ」というのは、春満の「人情の実意」であり、真淵の「わりなきねがひ」であり、そしてまた、宣長の「もののあはれ」であり、そうして、生きとし生きるものの真実の情にほかならなかった。・・・

 しかしその反面、「国学」は、儒教の外面的な合理主義を批判しながら、主情的な人間の恢復をもっぱら主張したのであったが、これは主情的な非合理主義の弱さをもっていたために、儒教の合理主義の否定をこえて、合理主義一般を否定する結果を招き、さらに主情的な神秘主義におちいるという危険性をあわせもっていた。

 この傾向は、宣長の死後、その門人平田篤胤にいたっていっそう顕著となった。宣長は形式的な規範性を排除することによって、人間の内面にもとづく真実性をとりあげ、その点から「国学」に学問性をあたえたのに反し、篤胤は、古典を絶対視し、これによって積極的に規範性を回復して、「国学」に神学としての体系をあたえようとしたので、これをますます宗教的に神秘化してしまった。こうして篤胤の「古学」的国学は、国際問題が「外圧」という形で積極的な問題となってくると、日本は「万国の本つ国、祖国たる尊きお国」であるといってこれを形式的にたかめ、狂信的な排害的ナショナリズムイデオロギーと化してしまった。こうして「国学」は、「尊王攘夷」思想の権化である、後期「水戸学」とともに、天皇イデオロギーの重要な支柱として確立され、明治絶対主義の専制的反動イデオロギーの一環を形成していったのである。

 宣長国学」の学問的な側面は、宣長から文献学的方法のみを忠実に継承した伴信友らによって発展させられた。