No.02 村上陽一郎「科学革命」

No.02 村上陽一郎「科学革命」 『概説西洋史有斐閣選書

2006/3/12(日)


村上陽一郎「科学革命」木材尚三郎・本間長世編「概説西洋史有斐閣選書p93

 科学的な領域における旧新の理論系の交代を、科学革命と呼ぶ。科学革命は1543年に始まったということができる。この年、コペルニクスは、その主著『天球の回転について』を発表し、それと同時に没した。この著作は、いうまでもなく、従来の地球中心説に代わって、太陽中心説を提唱したものである。

 ギリシア人たちは、天体の世界における運動は、その世界の完全性の現れとして、等速円運動以外にはありえないとかんがえていた。それゆえ、地球を中心にするにせよ、太陽を中心にするにせよ、惑星の不規則な運動は、恒星の運動と異なり、単一の円によってではなく、いくつかの円運動を組み合わせることによって、はじめて近似的に再構成できるのである。

 17世紀初頭のケプラーは火星の運行を記述する際に、どのような等速円運動を組み合わせても、満足のゆく結果を得ることができないのを知って、惑星のだ円運動という新しい原理を提案した。これに加えて、面積速度一定、および、惑星の公転周期の二乗と、太陽の平均距離の三乗との比が、どの惑星でも一定となる、という三つの惑星運動に関するケプラーの立てた法則は、惑星の運動を記述するまったく新しいモデルを提供することになった。

 17世紀前半、すべてをきちんと納めてくれる構図が確定しないまま、ケプラーの着想、ガリレイデカルトの慣性原理などが、一種のカオスの中で息吹いていたが、彼らよりは一世代あとに現れたニュートンは、そうした着想をすぺて一つの構図の中にまとめ上げる仕事をしたと言えよう。

 慣性原理を認める限り、アリストテレスの運動体の速さは加えられた力に比例する、という運動法則は捨てなければならない。ニュートンは、慣性原理の延長として、次のような運動法則かを立てることから始めた。運動する物体は、それを妨げる力が働かない限り、等速直線運動を続けるが、それを妨げる力が働いたときに起こる運動の変化は、加えられた力の方向に、加えられた力の大きさに比例して起こる。このテーゼの前半は慣性法則(第一法則)であり、後半は運動法則と呼ばれている。

 とすると、ケプラーの着想である、惑星の運動の原因は太陽である、という考え方は、惑星の運動の変化の原因は太陽である、と書き改めねばならなくなる。なぜなら、惑星は等速直線運動をしていないから。

 そこでニュートンは、惑星の運動の変化となっている太陽の力との関係を、どのように定量的に設定すればよいのかを考えた。それにはケプラーの第三法則がよい指針となった。そしてそこからニュートンは、太陽が惑星に対して両者の距離の二乗に反比例する力を及ぼして引き付けていると考えれば、問題は解決することを知った。この力は、すべての二つの物体どうしの間に、つねに共通に成り立つ力であるという意味で「万有引力」と呼ばれるにいたった。ニュートンは、若いころにこの結果を得ていたが、1687年に到って『自然哲学数学的原理』と題する書物の中でこれを発表した。

 ここに全宇宙を貫く一つの運動法則と、同じように普遍的な万有引力とを想定することによって、原理的にはあらゆる運動の問題が解決されることになった。

 近代科学を特徴づけるもう一つの重要な原理は、原子論である。上に述べた近代運動力学の原理は、ギリシャ的な運動論の超克の上に起こったが、原子論はすでにデモクリトスとという完全な祖型をもっている。・・・これ以上分けることのできないものとしての原子は、感覚的な性質を一切もっていない。そして、われわれの感覚に訴えてくる多様性はすべて、この原子の運動状態の違いにあるねと解釈するのである。・・・錬金術的な発想を否定し、物質の最終的な不変性を主張しようとする近代的な化学理論もここから生まれてきた。

 もう一つの近代科学の特徴はその生命観にある。ギリシア的な生命観が、生命の機械論的な把握を否定していたことは、デモクリトスの哲学が嫌われたことからも当然推定されるし、キリスト教的な自然観のなかでは、少なくとも人間は、特殊な存在であることも自明であった。

 しかし、17世紀初頭に、ハーヴィが、それまでのガレノスの生理学体系を根底から揺する血液循環論を提案したのをきっかけに、人間を含む生体を、物質系もしくは機械系として眺めようとする立場が次第に明らかになってくる。デカルトは、人間にのみ思惟を認めるところに人間の特異性を辛うじて残しはしたが、しかしそうした新しい生体観の旗手となった。