No.04 村上陽一郎 『「キリスト教の自然観と科学』

 

 キリスト教と自然科学との関係を考えるにあたって、両者を対立し合うものとみなす時代はすでに過ぎた。・・・むしろ第一には、キリスト教の一面が、じつは近代合理主義そのものである、という論点にその基本的な様相があり、第二には、それにもかかわらず、キリスト教が、そうした近代合理主義の超克にとっての一つの視座を提供しているのではないか、という見透しに、積極的な意義を認めたからにほかならない。・・・

 擬人的な自然観は、ギリシア世界の一つの特徴であった。・・・キリスト教的な考えがギリシア世界に浸透するにしたがって、このような擬人的な自然観は次第に駆逐され始めた。・・・キリスト教では、自然も人間もともに創造主の手になる被造物であることには違いないが、両者の間には越え難い大きな溝があることを強く主張するからである。自然と人間との間に設けられたギャップは、第一に、自然は、人間の住処として神から与えられたものとして把握されることのなかにあり、第二には、人間のみが、不完全ながらも、神の理性に近い理性と意志とを与えられた存在である、という人間観のなかにある。

 こうしてキリスト教的発想の内部では、神の理性が支配するこの自然は、支配の原理としての合理的な秩序をその本質として内蔵していることが前提され、したがってまた、不完全ながら理性を具備する人間が、与えられた理性を駆使して、自然界に内蔵される神の意思と理性の顕現たる合理的な秩序を我がものとしていくことができるという確信が芽生える。

 このことは、人間と自然とが、理解する主体者としての人間と、理解される客体者としての自然とに分離することを、その一つの系として含んでいる。・・・

 ひるがえって、自然が人間に与えられた住処であるという発想は、人間の自然支配という近代特有の感覚を育てた。・・・

 人類は自然の合理的秩序に関して「知識」を得ることを介して、自然を制御し支配する「力」を手に入れた。これは、自然界から「神」を放逐し、人類が神の位置に代って坐るということを意味する。・・・しかし、誰が支配者の位置に着くにせよ、自然は支配され、制御さるべき「対象」であるという思想そのものは、牢固として残されたのである。

 こうしてキリスト教思想は、自然界が合理的な秩序のなかに置かれていること、人間は与えられた理性によって自然のなかの合理的な秩序を追究することができ、かつまたその追究を通じて得られた知識を介して自然を自分の都合のよいように制御し、支配する技と力を獲得することができること、こうした近代合理主義と近代科学技術を根底から支える思想上の基盤を提供することに成功したわけである。

 じっさいのところ、近代科学の創始者の多くは、みずからの自然探究の仕事が、最終的には創造主たる神の栄光と全能とを白日のもとに露わにする光輝ある営為であることに絶対的な確信を抱いていたといってよい。・・・

 このような神に仮託された自然についての知を、人類のために、人類の手のなかに帰属させようと図ったのは、18世紀のいわゆる啓蒙主義の思想であった。

村上陽一郎 『「キリスト教の自然観と科学』 レマルク文庫

2006/3/12(日)