32-07 仏伝の成立

32-07 仏伝の成立

2006/7/23(日)


■ 仏伝の成立

 仏陀の伝記のうち、出家以後、厳密にいえば成道以後の事蹟が早くから仏伝などにあらわれ、美術でもとり上げられている。ジャータカ(本生譚 ほんじょうたん)も早くから成立していたようである。これは仏陀が宗教家として同時代の人々と接触したのが主に成道以後であって、教理の上からも仏教徒にとって成道以後の事蹟が最も問題となるのはいうまでもない。

 またジャータカが重視されたことは、仏陀の如き類まれな人格は僅か数十年の生涯で完成されたものではなく、そのために過去に無数の生涯における準備が必要であって、インドにおける輪廻の思想の裏づけもあったからで、釈迦牟尼を神格化するための第一歩として当然のことであろう。

 誕生周辺の事蹟は教理的にはそれほど重要な意味をもたないが、仏伝を完成させるためにはやはり欠くことはできない。誕生関係の説話が完成したのは諸仏典が最初に整理されたアショーカ王の時代以降であったと考えられ、美術の上でも最も遅れてあらわれている。


仏陀の説話と転輪聖王

 仏陀の無数の過去の生涯を説話化した本生譚は現在でも五百数十話が伝えられているといい、それらの殆どが自己犠牲による功徳の主題で貫かれている。仏陀となる最後の生涯を前にして、兜率天に菩薩として生まれ、神々を教化しながら地上に下る時が熟すのを待つ。仏陀の出現に最も適した場所と時期が選ばれ、菩薩が示された国土についての、母についてのの条件の適ったのが釈迦族の浄飯王(シュッドーダナ)の治める迦毘羅衛(カピラヴァストゥ)と浄飯王の妃摩耶夫人であった。

 迦毘羅衛は現在のネパールの首都カトマンズの西約キロのインド国境近くに位置し、釈迦族は非アーリア系の種族と考えられている。菩薩の下生に際し、梵天帝釈天、四天王などが守護することとなり、菩薩は六牙の象に化して摩耶夫人の右腋から胎内に入った。

 その時、夫人は眠ったまま、そのことを夢に見ていたといわれている(托胎霊夢。このことを聞いた浄飯王はアシタ仙人などの婆羅門に夢を占わせた。仙人は王子を懐妊した印で王位を継がれれば転輪聖王(世の中を支配する王)となられるであろうし、出家すれば仏陀となれるであろう」と答えたという(占夢)。

 仏陀の誕生の地はルンビニー園であったと多くの経典に記されている。ルンビニー園は摩耶夫人の実家である釈迦一族の天臂城(デーヴァダハ城)の近くに設けられた遊園で夫人は臨月を間近かにひかえて実家に戻り、この遊園で保養されていたのであろう。405年にこの地に参った中国僧法顕はここに二龍王釈迦牟尼に産湯をかけた遺跡があり、井戸と池として実用に供されていたと報告しており、玄奘三蔵が633年に巡拝したときには大石柱の上に馬の像が載せられてあったと記している。

 1896年に行われた発掘調査でタライ地方のルンミンディという集落がルンビニーの古蹟であると確められた。その景観が古い仏典や法顕、玄奘などの記述と一致していることは勿論であるが、アショカ王の建てた石柱が発見されたことで決定的となった。その発見された石柱は下半部が残っていて、五行にわたって銘文が刻まれている。

 「神々に愛され温容ある王(アショカ王の称号)は即位潅頂の後20年を経て、自らここへ来て礼拝した。ここは仏陀が誕生された所であるからである。石柵を造り、石柱を建てさせて世尊の誕生を記念し、ルンミニ村は地租を免じ八分の一税のみを課す」とある。アショカ王仏陀入滅後二百年程経ってマガダ国の王となり北インドの大部分に君臨しまた仏教の信者保護者として、その興隆に努めたことで知られている。

参照・引用
・『仏像入門』http://members.ytv.home.ne.jp/nejyoho/mihon.pdf