31-09「唯識」と「如来蔵」思想

31-09:「唯識」と「如来蔵」思想

2006/9/12(火)

 
 如来蔵思想とは、耳慣れない言葉かもしれない。かつてはむしろ仏性思想と呼ばれていた。しかし、如来蔵思想は仏教の歴史を理解するためのキーワードである。

 インドでは一世紀頃に初期大乗経典といわれる一群の経典が制作される。般若経法華経などである。二世紀に龍樹が出てこの初期大乗経典から「空」を体系化する。その後三世紀になって中期大乗経典といわれる経典群が作成される。それを受けるかのように、四世紀になると世親が出て唯識思想の体系化を試みる。

 如来像思想は同じく中期に制作された大乗経典を根拠として出てきた。大乗経典の一つ『如来蔵経』には「一切衆生は、如来蔵(如来の容れもの)である」という経文、また『涅槃経』には「一切衆生は、仏性をもつ」という経文がある。『涅槃経』の経文は、“一切の生きものは、仏に成ることができる”という意味に解されたり、果ては、仏教の平等思想の宣言だとまで解釈されることがある。

 如来蔵思想の背後にはインド土着思想であるヒンズー教というものがあるのではないか。仏教の開祖である釈迦は「縁起」を説いた。つまり、“仏教”とは縁起説である。この縁起説とは、ヒンズー教の「アートマン」(我)〔霊魂〕の思想を根底から否定したものなのである。“仏教”の縁起説からは、「無我・無常」の説が導出され、これが仏教の旗印ともなる。

 これに対して、「我・常」ということを積極的に主張するのが、如来蔵思想であり、『涅槃経』には「仏陀とは、我(アートマン)を意味する。しかるに、その我は永遠不変の実在である」と明記されているのである。従って、如来蔵思想の「我の思想」、「有の思想」が仏教の縁起説・無我説と全く逆の立場であ。“如来蔵思想は仏教(縁起説)ではない”ということになる。

 瑜伽行派(ゆがぎょうは)の唯識説というものも、この如来蔵思想というものと全く無縁なのではない。というのも、実は、唯識思想を説いた瑜伽行派の人々は、同時にまた、如来蔵思想をも説いていたからである。現象的なあれこれの存在は、「無常」であり、「無我」であるが、それらを生み出す原因となる基本的な実体それ自体は、「常」であり、「我」であり、実在であると説くものである。

(ここまでは松本史朗氏の見解を借用している)
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