25-13 虎渓山永保寺の「三笑橋」

25-13 虎渓山永保寺の「三笑橋」

2006/2/25(土)

 
 虎渓山永保寺は東濃の多治見市にあり、自宅からは車で約一時間の距離である。虎渓山永保寺は室町時代の初期の乱世に活躍した夢想国師が開創した禅寺である。夢想国師は、京都の竜安寺西芳寺苔寺)、天竜寺などの庭を造営している。

 永保寺の境内は岩山のそれほど高くない虎渓山と谷が深くなった土岐川に挟まれた地にあって、景観に恵まれている。虎渓山というのは、この地が中国江西省の慮山(ろざん)の虎渓に似ているからである。庭を出ようとするところに、「三笑橋」と名づけられた石橋がある。 三笑橋の名前は中国の故事に由来する。

 中国六朝時代の東晋(とうしん)の地、景勝地であり仏教の霊場として名高い江西省廬山(ろざん)に慧遠(えおん 334~416年)が住した。僧の出世間性を自覚宣言し、隠逸・修道の居を構えた慧遠は、白蓮社を結成し西方往生を期し30年の間、山を出なかった。ある日、陶淵明と陸修静の両人が彼を訪ねて清談した。

 ところが陶淵明、陸修静の二人の帰りを送りに出たところ、話が尽きず思わず虎渓を過ぎて外に出てしまった。虎の鳴声でそのことに気づいた三人はともに手を打って大いに笑ったという。俗界禁足の誓いを破ってしまったにもかかわらず、思わず起こった三人の笑い。照れ笑いとは次元の異なる、高らかでおおらかな笑いである。この故事は、儒道仏が融合化する唐以降の中国でつくられたと思われるが、この笑いのもつ明るさが好きである。ここで一句。

 五月晴れ虎も見あぐる大笑い

 夢想国師は鎌倉末期から南北朝の乱世になかに生きた人である。その時々の権力者と深くかかわりあいながら、常にその対立を超えるところに位置し、日本文化の基礎を作った人である。室町時代とはいかなる時代であったのか。柳田聖山の著書『禅入門−5 夢想』から引用する。聖山の文にはリズムがある。

 「室町の文明史は、王朝の風雅の、再編を軸とする。それは、新古の総合に尽きぬ、独自の美意識を前提としてのことである。能楽の二重構造は、その代表である。二重の時間の交錯は、単なる怨霊の鎮魂に尽きぬ、三界万霊の実感を前提として、はじめて成立することとなる。自他不二、怨親平等の理念は、単なるタテマエではなかった。」

 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其の貫道するものは一なりと、後に芭蕉は記す。そんな只一筋の道の先端に、夢想疎石の寿塔(墓標)があった。ほとんどの人は、それを気づいていない。」