200-25-12

25-12 伽羅沙(ガラシャ

2006/2/25(土) 午前 5:09 --25 仏教と日本文化 歴史

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  散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ

 熊本市の中心より北に位置する立田山の山麓立田自然公園がる。そこは細川家の菩提寺泰勝寺跡である。そこには細川家初代細川藤孝夫妻と二代忠興夫妻の墓がある。総称して「四つ御廟」と呼ばれている。一番奥の忠興の隣が細川ガラシャ夫人の墓である。

 立田山は熊本市の中心部を一望できる小高い山である。頂上付近はつつじが群生し、訪れたときは五月。明るくさわやかな風が吹いていた。山麓立田自然公園は、木が生い茂り、湿気が多いのか、立木にもこけが生えている。訪れたのは朝の早い時間で、差し込んでくる日差しもなく、静寂そのもであった。

 細川ガラシャは永禄6年(1563)、明智光秀の第三女として生まれた。幼名を玉子といった。天正6年8月、18才の時、織田信長の命により丹後田辺城(現舞鶴市)の城主であった細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。ところが、1582年(天正10年)6月に本能寺の変が起きる。忠興は秀吉の側に立ち、光秀と山崎で戦った。このとき忠興はやむなく玉子を離別・幽閉したが、後に復縁を認められた。玉子はその後キリスト教に入信し「ガラシャ」の洗礼名を受けた。

 しかし、関が原の合戦直前、屋敷は石田光成の軍に囲まれ、人質として大阪城へ入るようにとの要請を受ける。彼女はこれを拒否し、屋敷に火をかけ、家老の小笠原少斎に胸を突かせ猛炎(もうえん)の中壮烈な最後をとげた。慶長5年(1600)7月17日。38歳の生涯であった。冒頭の句はそのときに詠んだとされるガラシャの辞世の句である。

 時は今 天が下しる 五月哉

 これは光秀が本能寺の信長を襲撃する直前に催した連歌会での光秀の発句である。ガラシャの句の「時知りて」は、光秀の「時は今」を意識していたのだろうか。「時」 の移ろい、「時」の訪れ。ガラシャはじっと見ていたのである。

 ガラシャ四百年の命日に新作能「伽羅沙」が舞われた。以下は、熊本日日新聞(2000.6.24朝刊)の記事からの引用である。
http://www.kumanichi.co.jp/sekigahara/sekigahara02.html

 ガラシャ四百年の命日、夏の日が暮れなずむのを待って水前寺公園能楽堂で「伽羅沙」が舞われる。観世流能楽師梅若六郎による新作で、水前寺の池にかがり火を映しながら、演じられる夢幻能である。 忠興が盛大な追悼ミサを行う場面から始まり、小笠原少斎の霊が現れ、神はなぜ奇跡を起こし、ガラシャを救ってくれなかったのか、と嘆いて消える。ミサに参列し、ひとり残った高山右近のもとへ、ガラシャの霊が現れ、信仰によって苦しみから救われ、非業の死を遂げた父の魂もまた救われたのだと語る。むしろ死によって得た永遠の生命を喜び、静かに舞う。四百年の時空を超えて、水前寺の森で生者と死者との魂がどう触れ合うのか。


 梅若六郎新作能に挑戦する、気鋭の能楽師である。小笠原少斎の霊の嘆きと対照させることによって、ガラシャの澄み切った心の世界を描ききったのではないか。