13-01 念仏について

 「念仏」とは、梵語の漢訳語で、仏を憶念・思念するの意である。原始仏教では仏陀(釈迦)に対する追憶・帰依・礼拝などの行法の一つと考えられる。仏教徒の実践行である三念(念仏・念法・念僧)もしくは六念(三念に念戒・念施・念天を加える)の行の一つであった。のちにこの意味がだんだんにずれてゆき、仏の理体(法身)を心に念じることになり、さらに仏の姿(色身)を心に観ずる「観念の念仏」になった。

 観念の念仏は仏の全身や一部を具体的に頭の中に描くことで観想の念仏といわれるが、これがさらに浄土教などの発達により仏の名を唱える「口称念仏」が重視され、念仏というとこの口称念仏を意味するようになった。「南無阿弥陀仏」は、この浄土教阿弥陀に対する口称念仏であるが、日本では念仏というと、この「南無阿弥陀仏」、さらになまって「ナンマイダー」の語をさすことにまでなった。

 このように念仏とは禅定で精神を統一する行の一つで、これにより滅罪や悟りを得るものである。念仏がことに強調されるのは中国浄土教になってからである。浄土教では『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀教』の浄土三部教が根本となる。『観無量寿経』にはさまざまな観仏の方法が説かれている。中国浄土教の始祖慧遠にあってはまだこの観想念仏が強いが,北魏末に出た曇鸞になると憶念の念仏と称名の念仏を同格に位置づけるようになり、さらに唐の道綽になると末世観が加わり、末世にいたっては称名の念仏こそが正しいとする説を出した。

 浄土教の大成者善導の考えでは称名の念仏こそ浄土往生のための最上行であるとし他の観念の念仏とは、はっきりと分けるようになった。日本ではこの善導の考え方を受け、法然が『撰択本願念仏集』を著し、「専修念仏」をとなえ、浄土宗を開いた。法然の考えはいろいろと修行のあるなかで、口承念仏こそが易行最勝唯一の往生の道と説き、もっぱらに念仏を唱えることを勧めた。親鸞にあってもこの考え方は同じであるが,専修念仏に他力の考え方を徹底し、口承念仏が即往生を決定するとの考えにいたった。

引用・参照
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O126L100.HTM
・望月信亨『浄土教之起源及発達』1930,復刊,山喜房
・藤田宏達『原始浄土思想の研究』1970,岩波書店
堀一郎『我が国民間信仰史の研究』1953,東京創元新社
2006/11/8(水)