12-07 中国仏教と偽経

12-07 中国仏教と偽経

2006/11/24(金)


偽経の積極的意味-

■ はじめに

 偽経(疑経)とは、インド伝来の原典から翻訳されたのではなく、中国人が自ら撰述した経典群のこという。中国の仏教の歴史をみるとき、この偽経の問題については、より肯定的、積極的意味があるのではないか、と思われるのである。仏教の受容にあたって中国の伝統思想との調和を図って撰述された経典に『父母恩重経』や『盂蘭盆経』がある。これらは、仏教の出家制度と中国の儒教道徳との調和を図ったもので消極的な性格をもつ。

 しかし、『梵網経』や一連の禅観経典については、さらに積極的な意味がある。他のところで繰り返し述べているように、大乗仏教の戒律や禅定法は永らく十分な形で中国に伝えられなかった。インドには結局そのようなものがなかったのであり、中国においてその穴埋めが行われた、と考えてよいのではないか。インドにおいて成立した未完成の大乗仏教を完成させるのに、偽経は不可欠であったということはできないのであろうか。

 下記に、偽経に対する見方の一例を挙げる。


■ これまでの見方

 インド成立の経典を受容するだけではあきたらず、中国のそれぞれの時代の宗教的ニーズに対応する経典を偽作することが行われた。インド成立の漢訳経典に対して、中国成立の偽経は、経典編纂の過程で問題化され、仏説の権威を僭称するものとして批判されたが、そもそも時の宗教的ニーズに応えて偽作されたものであるから、もともと中国社会に受け入れやすいものであった。したがって意外に人気のある経典が偽経に含まれるのである。

 偽経はある意味では、仏教に対する中国人の主体的な態度ともいうことができる。インドの大乗仏教も、伝統的な部派教団を批判して、自分たちの新しい信仰を大乗経典として創作していったことを考えると、中国における経典の偽作に、中国人の主体性を見ることも可能である。

 牧田論文は、偽経撰述の意義を次の六点に分けて示している。 
  第一に「主権者の意に副わんとしたもの」、
  第二に「主権者の施政を批判したもの」、
  第三に「中国伝統思想との調和や優劣を考慮したもの」、
  第四に「特定の教義信仰を鼓吹したもの」、
  第五に「現存した特定の個人の名を標したもの」、
  第六に「療病迎福などのための単なる迷信に類するもの」、である。

 それぞれに当てはまる具体的な経典名については省略するが、これらの偽経撰述の意義を考えると、偽経の存在が良きに悪しきにつけ、いかに中国人の実存に適合したものであるかが理解される。

参照・引用
・菅野博史 「東アジアの経典観」 
  シリーズ・東アジア仏教第1巻『東アジア仏教とは何か』春秋社 p97
・牧田論文は、牧田諦亮『疑経研究』(1976年)