10-01 北魏と石窟(雲崗・龍門)

10-01 北魏と石窟(雲崗・龍門)


■ 北魏(386~534年)の時代

 北魏は、中国の南北朝時代鮮卑拓跋部(せんぴたくばつぶ)によって華北に建てられた王朝。国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代曹魏と区別して、北魏と称される。

 拓跋部は、五胡十六国時代に代を建国。その後、前秦に滅ぼされた。拓跋珪(道武帝)は、前秦が淝水(ひすい)の戦いで敗戦して弱体化したことを期に386年、代王を称して自立した。国号を魏と改め、398年に平城に遷都して、帝を称した。その後、南下して後燕を滅ぼすと、それまでの部族制を解体し、貴族制にもとづく中国的王朝に改編していった。

 北魏華北の諸国を滅ぼし、三代武帝の439年、華北を統一する。これより中国は南北朝時代に入る。このころ道士寇謙之(こうけんし)が道教教団を確立し、漢人官僚の崔浩と結んで太武帝に進言し、廃仏が断行された。(三武一宗の廃仏の第一)

 六代孝文帝のとき、馮太后の摂政のもと、儒教的礼制を採用し、均田制を施行し、三長制を確立した。馮太后の死後、親政を開始した孝文帝は、さらに急激な漢化政策を進めた。493年、都を平城から洛陽に遷した。


■ 雲崗・龍門の石窟

 雲崗の石窟は、北魏の初期の都があった平城(現在の大同)の西20kmの所にある大石窟寺院である。三代太武帝の廃仏の後に即位した四代文成帝(在位452~465年)が仏教を復興し、五窟の大仏を造らせてから、六代孝文帝が洛陽に遷都する(493年)までに大小53の石窟を東西1kmにわたって造営された。ガンダーラ・グプタ様式の影響を受けた仏像が並んでいる。

 孝文帝の洛陽遷都が落ち着くと、孝文帝の子の宣武帝雲崗の石窟にならい、洛陽の南13kmの伊水に沿う龍門に、父と曾祖母のために二窟を開き、さらに自らのために一窟を開いた。完成に23年間、80万人の労働力が投じられたといわれている。以後、唐の玄宗皇帝(在位712~758)までの約250年間に二千百余りの石窟が開かれた。その仏像は雲崗のそれに比べると中国化している。

引用・参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/53-china13.html