10-02 漢と西域 -仏教の伝来-

10-02 漢と西域 -仏教の伝来-


 前漢武帝(前156~前87年)は匈奴を北方へ追いやって、河西回廊と西域を支配下においた。ここにおいて、シルクロードが開通することとなる。このシルクロードにより仏教は漢の時代に中国に伝来した。

 シルクロードが開通する前に、ユーラシア大陸の東西の交易が無かったわけではない。匈奴はアジアの北部の広大な草原地帯と西域を支配していたが、漢はこの匈奴に金細工や絹の貢物をしていた。匈奴はこの漢から入手した絹を西アジアのパルティア(安息国)の方まで運んでいた。紀元前247年、パルティアはヘレニズム王朝として建国され、紀元後227年にササン朝ペルシアに滅ぼされるまで、西アジアのイランを中心とした広大な領土を支配していた。

 クシャン朝は一世紀初頭に成立した王朝であるが、その領土はアフガニスタンから北インドにかけての広大な地域に及んでいた。クシャン朝は北インドに関心を示し、パルティアは西のローマの脅威があり、両国の間には大きな衝突は起きなかった。

 中国への仏教伝来には諸説がある。史実の公伝としては、『魏略』の「西戎伝」に、元寿元年(紀元前2年)に現在のアフガニスタン北方の大月氏国の国王の使者である伊存から、『浮屠経』(ふときょう)を口授されたという。浮屠とはブッダの音写である。また、『後漢書』巻四十二に、明帝(めいてい)(在位57~75年)の異母兄弟である楚王英が仏教を信奉していたという記述がある。

 後漢の時代には、西域からの渡来僧による仏典の漢訳も始まった。安世高(あんせいこう)と婁迦讖(しるかせん)の漢訳経典は今日にも伝えられている。

 安世高の「安」は安息国(パルティア)の人であることを示す。安息国の皇太子の地位を捨てて仏教を学んだ。建和元年(147)に洛陽に入る。『安般守意経』(あんぱんしゅいきょう)、『陰持入経』(おんじにゅうきょう)、『人本欲生経』、『道地経』(どいじきょう)など20余年の間に34部40巻を訳出した。いずれも小乗仏教系の経典である。

 支婁迦讖の「支」は大月氏(クシャン朝)の人であることを示す。安世高よりやや遅れて洛陽に移住した。安世高の小乗仏教(部派仏教)に対して初めて大乗経典を漢訳したことで知られる。『道行般若経』(どうぎょうはんにゃきょう)、『般舟三昧経』(はんじゅざんまいょう)、『首楞厳経』(しゅりょうごんきょう)など初期大乗経典十四部を翻訳した。は中国の知識人に強い影響を与えた。

引用・参照
 http://www.kosaiji.org/Buddhism/china.htm