41-27 北魏の中国北部統一と敦煌

41-27 北魏の中国北部統一と敦煌

2007/5/1(火)


 太延五年(四三九)、北魏は張掖(ちょうえき)を攻めて北涼を滅ぼし、ようやく中国北部の統一を果たした。しかし、沮渠氏の一族で酒泉太守だった沮渠無諱(そきょむい)が北涼の建て直しをはかって酒泉・敦煌一帯に撤退したため、四四二年に彼が北涼の残党を率い高昌(現在の新彊ウイグル自治区トゥルファン)に逃れるまで敦煌は沮渠氏一族の支配下にあった。

 沮渠氏の一族が敦煌を離れると、かつて沮渠氏に滅ぼされ、伊吾(現在の哈密地区)に逃れていた西涼の李こうの孫・李宝は、ただちに敦煌に帰り、弟の李懐達を当時の北魏の都・平城(今の大同)に遣わし、北魏に帰順した。そこで北魏の太武帝(在位四二四~四五二)は、李宝を沙州牧・敦煌公に任命している。

 太平真君五年(四四四)に至って、李宝は西涼の再建をあきらめ周囲の反対をふり切って北魏に帰順したので、敦煌はようやく北魏の直接の支配下に置かれた。ところが、二年後の太平真君七年(四四六)、太武帝は司徒崔浩の言によって排仏令を出したので 敦煌では、北魏の文成帝(在位四五二~四六五)が承平元年(四五二)に仏教を復興するまで石窟の造営は途絶えた。その後、西魏の大統元年(五三五)まで、北魏敦煌支配は九十四年間におよんだ。この間、敦煌では北魏期に少なくとも十二窟が造営されたが、その大部分は孝文帝(在位四七一~四九九)以降の造営である。

 北魏北涼の旧地をその手に収めると、涼州敦煌に鎮(県の下に位置する行政単位)を設置し、敦煌鎮は晋昌しゅ(陣営)、楽かんしゅ、酒泉軍、張掖軍を管轄した。そして四四五年には西域に派兵し、ぜん善、焉耆(えんき)、亀茲を平定して西域諸国を直接支配下に置く。ここに敦煌は、西域経営の大本営となったのである。

 この頃の状況について『洛陽伽藍記』には「葱嶺以西より、大秦に至るまで、百国千城、赴かざるはなく、胡商販客、日々に塞下を奔る」とあり、敦煌の盛況を目のあたりにするようであった。

 ただ西域北道は、高昌の東側が柔然の勢力下にあった。しかも四五○年頃から四七○年にかけて、柔然北魏の間隙をぬって勢力をのばした。そのため西域における北魏の勢力は後退し、河西地区、とりわけ敦煌柔然と吐谷渾(とよくこん)の間にはさまれ、しばしば異民族に侵入され、まことに不安定な状況におかれた。

 延興二年(四七二)、柔然敦煌を襲い、鎮将尉多侯を破った。延興五年(四七五)に柔然はまたも
来襲したが、尉多侯によって反撃され大破した。そこで孝文帝の延興四年(四七四)に、朝廷では敦煌を放棄しようとの論議が起こったほどであった。『魏書』韓秀伝に「尚書は、敦煌一鎮は遠く西北にあり、賊寇ずるところ路は衝かれ、固からずを慮んばかり、涼州に移したいと奏上した。・・・韓秀は独り非をとなえ……」とのべている。ただし四八○~四九○年代にかけて高車(トルコ系丁零の後身)が興り、北魏はそれに呼応して柔然を撃破したので、敦煌はようやく安定したのである。

 このような背景のもと、敦煌の石窟造営は影響を受けないはずはなく、北魏初期の石窟が少ないのは、そのためと思われる。

参照・引用資料
・東山健吾『敦煌三大石窟』講談社選書メチエ