41-17 龍門 古陽洞と賓陽洞

41-17 龍門 古陽洞と賓陽洞

2006/6/2(金)


■ 古陽洞

 龍門石窟の中で、最も古く開かれた窟が、この古陽洞である。 幅6.8メートル、奥行約13メートルの馬蹄形平面を持ち、ドーム型の天井まで、約11メートルという大窟である。正面は二段の宝壇上に、本尊の釈迦如来座像と両脇侍菩薩像を刻む。 さらに、左右の壁の上中下三層に大龕像が、また、窟全体に無数の小龕像が造られている。

 書道家が手本とする『龍門二十品』のうち、十九品がこの窟の造像題記であるが、これらの題記により、495年頃には、上層の右上から造像が始まっていたことがわかる。 上・中層と奥壁三尊像が孝文帝と宣武帝の時期に造立され、その後、孝明帝の時期に、窟底を掘り下げて下層の仏龕を加えたため、本尊が今のように高い位置になったものと考えられている。

 八大龕と呼ばれる上層の大仏龕には、禅定印を結ぶ仏座像を各一体ずつ彫り出しているが、これらの諸像と奥壁の三尊像は、共通した特徴を持っている。 顔貌はあごの細い瓜実顔、また、大衣の衣文線の間隔は細く、繊細で、柔らかな質感がよく出ている。 これらの特徴は、雲崗の諸仏とは一線を画すものである。


■ 賓陽洞

 賓陽洞は中洞・北洞・南洞の三つの窟から成る。 これらの窟は、北魏の宣武帝が勅願し、正始二年(505年)から開鑿を開始したものであるが、そのあまりの規模の大きさゆえにに果たせず、永平年間(508~512年)に当初の計画を縮小、正光四年(523年)に、ようやく中洞のみが完成した。
 北洞・南洞は、その後、隋の時代に工事を再開し、初唐期に完成を見たものである。

 賓陽中洞は、幅約11メートル、奥行9.8メートル、高さ9.3メートルの窟で、奥壁に釈迦如来座像、二菩薩、二大弟子の五尊を刻む。 中尊釈迦如来は、高さ約8.4メートルの巨像で、ドーム型の天井に沿うように、やや前方に傾く姿勢をとっている。 太い鼻翼、唇は仰月形、そして眼は杏仁形と、いわゆるアルカイック・スマイルを浮かべたその顔貌は、日本の飛鳥仏を思わせる。典型的な北魏時代の造像と言うことができ、あごの張った顔の輪郭や、ボリュームある体躯などに、雲崗石窟の諸仏との類似を指摘する説もある。 ただ、着衣や光背の形式など、その後の龍門石窟の造像に影響を与えた新形式も少なからず含まれており、勅願窟として、他の窟をリードする位置にあったことは間違いない。

 このほか、南北の側壁にも三尊仏を配しており、これらの諸尊が、礼拝者を包み込むような印象を与えるように、工夫されているかに思われる。 また、かつては前壁に、縦2メートルに及ぶ皇帝皇后礼仏図が浮彫りされていたというが、これらは無残に掻き取られ、米国にわたった後、皇帝がメトロポリタン美術館、皇后がネルソン美術館に、それぞれ別れて保存されている。

 この窟で注目したいのは、やはり、中尊の釈迦如来である。 その微笑みは、確かに飛鳥仏との共通性は感じさせるものの、それよりずっと温かい。 やや寸詰まりに感じられる体つきも、むしろ愛敬を増している。


■ 蓮華洞

 奥行10メートル近くはあろうかという大窟で、造立年は521年以前と考えられている。奥壁中央の如来立像は、高さ5.1メートル、頭部と両手首から先を欠くが、ゆったりとしたボリューム感のある体躯をしている。大衣の衣文線が深く、間隔も広めに彫り出されている点は、他の魏代の窟と若干、異なる特徴である。

 さらに、この窟で目を引くのは、中尊の頭光として、また、天井を覆うかのようにあらわされた、蓮華文様である。 この蓮華文様が、そのまま窟の名となっていることは言うまでもないが、たっぷりとした幅広、肉厚の態をとる花弁の描写は、尊像自体の有り様と非常にマッチしている。

 また、この窟でも、舞い踊る飛天たちが、蓮華文様や仏龕の周囲に華やぎを加えている。

引用・参照
http://www.tcp-ip.or.jp/~mitchin/sp1/page1.html