10-15 曇無讖と『涅槃経』

10-15 曇無讖と『涅槃経』

 

 北涼(397~439年)の太祖 沮渠蒙遜(そきょもうそん)は呪術と語学に長じた曇無讖(どんむしん)の名声を聞き、敦煌にいた彼を迎え、おりおりに意見を求めたという。ところが、これを聞いた北魏(386~534年)の武帝(在位423~452年)は、曇無讖を北魏が都を遷した平城(今の大同)まで送るように命ずる。

 太武帝が彼を称賛したという言葉が伝えられている。
「曇無讖法師、博通多識羅什之流、秘咒神驗澄公之匹」
 鳩摩羅什(344~413年)が漢訳の一大事業をなし終えて没したばかりの頃である。羅什の名声はとどろいていたのだろう。「博通多識羅什之流」はその羅什のようだと評価されたのだ。「秘咒神驗澄公之匹」は仏図澄(ぶっとちょう ?~348年)のように「秘咒神驗」の力があるとされたのだろう。
 これは私の解釈であるが、間違ってなければ大変な評価である。

 太武帝は、北魏の第三代皇帝。華北の統一を完成したが、道士の冠謙之(こうけんし)を信任し、道教を信じて廃仏を行った皇帝である。廃仏を行った皇帝が仏教の僧を求めたのである。沮渠蒙遜はこの命令に逆らえず、曇無讖を送り出す。しかし、旅の途中で彼を暗殺してしまう。北涼はその後北魏の侵攻をうけて滅ぼされる。北涼の滅亡によって、五胡十六国時代は終わった。

 ところで、曇無讖は中インド出身である。曇無讖は初め部派の仏教を学んだが、のち白頭禅師から樹皮にかかれた『涅槃経』をもらいうけた。これを読んで感激し、大乗を業とするようになった。曇無讖ははじめは国王に寵されていたが、誣告をするものがあり、殺されることを恐れ、『涅槃経』『菩薩戒経』『菩薩戒本』の経本をもって西域の亀茲国(きじこく)に逃れた。412年、河西回廊で姑蔵を都として北涼を建国していた沮渠蒙遜に招かれたのである。

 曇無讖は携えてきた『涅槃経』ほか大乗の『菩薩地持経』や『優婆塞戒経(うばそくかいきょう)』などを姑蔵で訳した。『金光明経(こんこうみょうきょう)』四巻も曇無讖の訳だとされている(426年)。

参照・引用
『東アジア仏教とは何か』p51 春秋社

 上記の漢文「博通多識羅什之流、秘咒神驗澄公之匹」の解釈は間違ってなかったようである。

 曇無讖は「博通多識なること羅什の流、秘咒神驗は澄公の匹なり」(『梁伝』巻二)と称されたように、翻訳家としては羅什の博識に等しかったが、呪術にたけていたことは仏図澄に比せられた。

参照・引用
・蒲田茂雄 『新中国仏教史』大東出版社 p75