大乗戒の果たした役割

大乗戒の果たした役割

2007/5/22(火)


 最澄は、中国ででき上がった天台宗というものをただ輸入しただけではない。戒律の問題が深く関わっている。普通、われわれが接近しやすい戒律に関する仏典に『四分律』がある。『四分律』には、出家僧の比丘の守るべき戒律が二百五十ほど挙げてある。二百五十の戒は普通ではなかなか守れないのだが、しかし、守るというのがタテマエになっている。

 ビルマやタイでは、そういうタテマエになっている。今日の中国とか韓国でも、少なくともタテマエは崩していないのではないかと思われる。仏教で三学といわれる、戒・定・慧というのは、基本的な修行の方法である。この三学の中でも戒は必要条件である。これがなかったら仏教は成立しない。それが日本では公然と否定された上で、なお仏教であり続ける。このように戒がすっとんでしまった状態は日本独自のものではないかと思います。

 私はそのきっかけがいったいどこにあったのかを、ずっと探っていた。そうすると最澄にぶつかった。こんなふうに戒が崩れていった大きなきっかけは最澄ではないか。彼はそれを正当化する理論をつくりあげた。それが『顕戒論』(けんかいろん)である。

 『顕戒論』の特徴を一口で言えば、梵網戒(ぼんもうかい)に徹するということである。ブッダが亡くなると、かなり早い時期に戒律についての経典が編集が行われ、それが『四分律』である。最澄が出家した時代の日本ではこの『四分律』が広く行われていた。この経典を中心に据えて、出家する僧侶に戒律を授けるという制度ないし儀式、これを中国から日本に持ち込んだのが鑑真であった。

 しかし、鑑真の一行が来るまで、この受戒の儀式の制度はなかった。受戒のためには、戒をしっかりと身に付けた三人の師と七人の証人が必要だが、鑑真がくる前には、そういう十人からなるチームが日本にそろっていなかったからである。鑑真は東大寺の西に、戒壇を築いた。最澄は、そこで鑑真のお弟子さんに具足戒(ぐそくかい)を授けられた。

 しかし、その直後に比叡山に入ってしまって、12年間も山から下りてこなかった。こうした体験のせいか、『四分律』の二百五十戒を小乗戒とみなし、それの切捨てが宣言され、大乗の梵網戒だけをやればいいということを正当化する。これが『顕戒論』の主眼である。

 それまでの僧侶は、一人前になるためには、東大寺戒壇か九州の観世音寺、あるいは下野の薬師寺などの戒壇具足戒の受戒をした。しかし、最澄が考えたのは、比叡山の大乗戒壇で受戒すれば、正当な僧侶になれるというものであった。

引用・参照
・上山春平 問題提起Ⅰ 日本に根付かなかった礼と戒律 『日本と中国』小学館