41-12 敦煌文書(とんこうもんじょ)

41-12 敦煌文書(とんこうもんじょ)

2006/2/1(水)

 
 1900年、第16窟の入り口の通路の横壁の中にもう一つの部屋があることが発見された。そこには大量の文書や図画が所蔵されていた。この石窟は現在は第17窟とされ、その由来から蔵経洞ともいわれる。その第17窟に所蔵されていた文書を「敦煌文書」(とんこうもんじょ)という。

 「敦煌文書」の発見が敦煌莫高窟の存在を世界に知らしめることになった。発見の噂をどこからか聞きつけて最初にやってきたのがイギリスの探検家・オーレル・スタインである。1907年である。翌年にはフランスのポール・ペリオ、1912年には日本の大谷探検隊、1914年にはロシアのオルデンブルグ探検隊がやってきた。

 その「敦煌文書」の中に『勝鬘経義疏本義(しょうまんきょうぎそほんぎ)」という『勝鬘経』の注釈書(以下「敦煌本(とんこうぼん)」という)があった。この注釈書と聖徳太子とは深い関わり合いがあった。しかしながら、そのこともすっかり忘れていた。

 今回の旅は、地に足が着くことがなかった旅である。憧れのものに出会うにはそれなりの心の準備が必要である。しかし、その準備が間に合わないのである。トルファンのベゼクリク千仏洞もそうであった。写真で見たあの渓谷の風景が突然現れた。第17窟もそうであった。やはり突然現れた。残っているのは「埃っぽい窟だなあ」という印象だけである。

 聖徳太子は、『法華経義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』の三冊の経典の注釈書を撰述している。三冊を総称して『三経義疏』という。この『三経義疏』の真撰については聖徳太子の実在も含めて疑問が出されている。『勝鬘経義疏』の真撰論争に上記の「敦煌本」が登場するのである。敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』が『勝鬘経義疏』と七割がた同文であることから、『勝鬘経義疏』が太子の真撰ではないとするのである。

 この論争については、梅原猛の説を紹介したい。「分科」とは現代風にいえば、論文の章のたて方である。

 太子の義疏の直接の参考となった「敦煌本」は、はじめの部分が欠落してどのような分科が行われたか明らかでないが、太子のように乗の体と乗の境と行乗の人と分かつ分科法はとられていないのである。・・・分科は経全体の解釈と密接に関係しているのである。小学館聖徳太子(下)』P396