41-13 敦煌莫高窟の仏教

41-13 敦煌莫高窟の仏教

2006/4/10(月)


 敦煌莫高窟の石窟がどのように使われていたのか。単なるモニュメントに過ぎなかったのか、それとも寺院として使われたのか。よくわからなかった。今回の上京の際に一冊の本を見つけた。そこに『敦煌の社会と仏教』という文があった。「九・十世紀の莫高窟と三所禅窟と敦煌教団」という長い副題が付いている。

 唐代の記録によると、沙州敦煌城から莫高窟千仏洞にいたるには、約12kmの距離があり、途中には敦煌十一郷の一つ莫高郷の集落や耕作地帯があった。その南に鳴沙山がある。その鳴沙山に沿ってさらに東南に進むと大泉河(当時は宕川)に出る。この河沿いの鳴沙山の断崖に莫高窟がある。

 莫高窟は当初は修行僧の禅定の場として人里はなれたこの場所に開鑿された。伝説によると、この禅窟には、晋代には仙厳寺という寺額が与えられていたようである。唐代以降の敦煌の人たちは、鳴沙山の別名である、莫高山の名にちなんで莫高窟などと呼んでいる。

 未完

参照・引用
 土肥義和 『敦煌の社会と仏教』 『東アジア仏教とは何か』第一巻所収 春秋社