41-25 敦煌の莫高窟の時代区分

41-25 敦煌莫高窟の時代区分

2007/5/1(火)


 現在、敦煌莫高窟にある石窟は各時代の窟の構造、塑像・壁画の様式、および主題内容により、敦煌研究院のスタッフによって一定の編年がなされている。幸い一部の窟には製作年代を示す供養者銘があり、また、窟の造営年代や供養者の名を記す碑文や文書などがあって編年の手がかりを与えてくれる。ここでは、大きく初期・中期・後期の三期に分け、それぞれの時期の特徴を示す代表的な作品を選んで時代順に紹介しよう。

 ここで敦煌初期(四二一~五八一)の石窟というのは、北涼から北魏西魏北周の各時代にわたる北朝期に編年されているものである。この時期の敦煌は、主として、匈奴鮮卑などの北方民族が支配した時代であるが、石窟の造営には北魏北周の貴族のほか、主として漢民族の篤信者があたっている。

 続いて敦煌中期(五八一~九○七)は、階・唐の時代の統一王朝期にあたる。もっとも敦煌では、中唐期に一時、吐蕃チベット族)の支配を受け、さらに晩唐期には帰義軍節度使によって、かろうじて漢民族の支配が保たれた。とはいえ、この中期が敦煌石窟の最も盛んな時代であったことは、いうまでもない。

 次に敦煌後期(九○七~一一二六八)は、五代・宋・西夏・元と続く。なお、宋代の曹氏政権の末年、沙州回鵠(さしゅうかいこつ)が数年にわたり敦煌を支配している。この時期、宋初までは瓜・沙両州の支配者、曹氏が画院を設置し、また大規模な窟を造営して敦煌石窟の維持が保たれた。だが、やがて西方からイスラムの勢力が浸透し、南方での海上交通の発展などもあって、十世紀頃まで栄えたシルクロードのオアシス・ルートが衰微したのにともない、敦煙もまた残照の時期を迎える。

参照・引用資料
・東山健吾『敦煌三大石窟』講談社選書メチエ