No.11 伊藤俊太郎 『比較文明』から

<p212>
 たとえばイスラム文明を取り入れても、西欧はデカルトの時代になりますと、機械論というような独自のパラダイム、あるいは自然把握の枠組でもいいが、そういうイデオロギーで、自分たちの科学をつかみますよね。そしてそれが、今度は世界的になります。機械論は、ぼくはやっぱりイスラムにはない統合原理だと思います。(伊藤)・・・

  デカルトの機械論、ベイコンの自然支配が近代科学をつくった二つのイデオロギーだと 思いますが、・・・(伊)


<p24>
 <オリエント文明ギリシア文明-ローマ地中海文明-西欧文明-西欧文明の拡大>という世界史の単線的系譜は、今日ではすでに常識化した見解となっているが、しかしこれは19世紀におけるヨーロッパの世界支配という既成事実ができあがった時点で、西欧の歴史学者によってつくりあげられた、西欧中心のいわば身勝手な一面的世界史像なのである。

 こうした西欧中心的な世界史像の原型は、まずへーゲルの歴史哲学のなかにはっきりあらわれている。ヘーゲルにとって世界史とは、「普遍的な世界精神が民族精神をを媒介として、その本来の自由の意識を実現してゆく過程」にほかならないが、この世界精神の自己実現は具体的にはまずオリエン卜世界にはじまり、ギリシア世界、ローマ世界を経て、近代ゲルマン世界にいたる過程をとる。この最後のキリスト教ゲルマンの段階において自由な完全な自己意識に達するとされ、この「自由な完全な自己意識」とは「近代国民国 家」の成立にほかならないから、結局、近代西欧諸国の成立によって世界史は完結するという形をとっている。

 この場合、、中国やインドはもっぱら「静的」であり、理性がいまだ「自然性のなかに埋没して」いるとされて、こうした世界精神の展開に参加せず、その「前史」に追いやられてしまっている。・・・その後の西欧の世界史像は、本質的にこのへーゲル的立場を出ていないようにおもう。

 たとえば「哲学は歴史の敵である」と考えて、ヘーゲルとは反対に理念や普遍者から恣意的に歴史を構成するのではなく、かえって個体的なものから普遍的なものを導出することを主張した「経験歴史主義者」ランケの世界史も、人類史の総体を把握すると称しながら、依然として西欧中心主義に立脚して、オリエントにはじまり、ギリシアを経てローマに至り、このローマ的なるものと融和した「ローマ・ゲルマン的諸民族」の成立を世界史の骨組としている。ここでも中国やインドはあたかも、自然状態のままであるとして、彼の世界史の中に組み入れることが拒まれる。そして普遍的なキリスト教精神と個別的な国民国家の対立連関を軸としてできあがってゆく統一西ヨーロッパ世界の形式が、彼の言う”普遍的”な世界史であった。・・・

  ところで、ランケとほぼ同じ時代に、ヘーゲル、ランケを貫いて19世紀ヨーロッパ史学の共通の地盤となってい「国家」や「民族」に主体をおく歴史ではなく、かえって経済的な関係一つまり生産力と生産関係の矛盾に歴史の発展の原動力を認める考え方が、マルクス唯物史観によって提出された。マルクスはへ一ゲルの普遍的精神の過程を経済社会 のメカニズムにおきかえ、国家や民族間のあつれきや闘争が歴史の発展を支えるのでなく 、社会的関係、階級闘争こそ歴史の主題であるとする。

 ランケがへ-ゲルの国家史観、民族史観をうけついだのに対し、マルクスがへーゲル批判から出発しながら、こうしたナショナリズム的「国家史観」をのり越えて新しいインターナショナルな「社会史観」ともいうべきものを打ち出したのは対蹠的である。しかし、ここに注目すべきことは、このマ ルクスの歴史観も依然として西欧中心主義の上にのっているものであるということである。

<p140>
 ヨーロッパでは「自然」はどのように考えられていたのであろうか。・・・古代ギリシアにおいては、・・・内に生成発展の原理をもった生命ある有機的自然が自然の原型であった。そこでは自然はなんら人間に対立するものではなく、人間はそのような生命的自然の一部に包みこまれていた。神ですら自然を超越するものてだはなく、それに内在的である。

 ・・・ところで中世キリスト教世界に入ると、神・人間・自然の一体性は破れて、代わって神一人間一自然というせつ然たる階層的秩序が現れてきたのである。そこでは人間も自然も神によって創造されたものであり、神はこれらのものからまったく超越している。人間も自然と同格ではなく、むしろ自然の上にあってこれを支配し利用する権利を神から授かったものとなる。こうしたキリスト教の自然観は12世紀のシャトル学派を通じ、ロジヤー・ベーコンを経て、17世紀のフランシス・ベーコンの自然支配の概念においてはっきりとした形をとる。

 近代西欧の自然観は本質的には、この中世キリスト教世界に含まれていた自然を継承し、いっそうこれを自覚発展させたものといえる。すなわち、自然を人間とは独立無縁の対立者として、これを客観化し、このまったくの他者に、外からさまざまな操作を加え、分析し利用しようとするものである。そこには自然から人間的要素としての色や匂いなどの「質」を追放し、生命や意識をとり除き、もっぱらこれを「大きさ」「形」「運動」などのいわゆる「第一性質」のみに注目して、それを要素に分解し、因果的、数学的に解析してゆく、近代の機械的自然観が形成されることになるのである。

 近代的自然観の創始者は17世紀のデカルトである。かれは、まず物体から「実体形相」と呼ばれていた霊魂のような生命原理をすべて除去し、これを一様な幾何学的「延長」に還元する。・・・一万、心の側もデカルトにおいて「我思う、ゆえに我あり」のことばでしめされているような「純粋思惟」と呼ばれるものとなった。これは幾何学的な理性であり、数学をもちいて対象を理性的に構築していくものはであるが、生命の血潮が流れることのない冷たい操作的思考である。そしてこの「純粋思惟」と「延長」の谷間に「生命」は抜け落ち、「自然」がその自らの能動性を持たない原子・分子のダンスとなり、そこから他律的な、決定論的な世界観も生れてきた。このデカルトによって創始された「機械的世界観と傷迅二、さきに触れたフランシス・ベーコンの「自然支配」の理念とが、あたかも車の両輪のごとく結びつき、近代の科学技術をおし進めてきた。

<p21>
 今や一つの時代が終わりを告げている。一つの時代_それは西欧が「世界」であった時代である。たしかに今世紀の二つの大戦を経ることによって西洋中心の世界が音をたてて崩れ去り、その西欧中心主義とかたく結びついていたいわゆる「近代」が、まさしく終焉しようとしている。すべてが西欧のまわりをめぐって演せられたこの「近代」というドラマの終焉の後に来るものが、「非西欧の復権」であることにまちがいはないと思う。

 私はあえて「復権」という。なぜなら従来、非西欧文明の伝統は、西欧中心的歴史像によって久しく世界史の領分から不当に疎外されてきたからである。今日西欧はもはや「世界」ではなく一つの「地方」となったが、こうしたことはしかし、1945年以降にのみ限られる、はなはだ例外的な事態であったであろうか。否むしろひるがえってみれば、西欧が「世界」であったのは、たかだかこの数世紀ばかりの特殊なことではなかったのか。

<p31>
 現実的に西欧が「世界」となりうる地盤を獲得したのは、15世紀後半以降のいわゆる「大航海時代」においてであるが、しかし、ヨーロッパのこの地理的な外延的拡大だけで、西欧の優位が内容的に確立されたわけではない。

 ・・・西欧は17世紀にいわゆる「科学革命」を遂行することにより、真に世界を支配するにいたる潜在力を自らのものとなしえた。・・・実に「科学革命_|による近代科学の形成・確立こそ、世界史における西欧の優位の真の起源なのである。・・・さらに18,19世紀においてこの近代科学のもっている潜在力は産業革命によって現実化され、この近代科学技術を背景とする資本主義の膨脹力の前に、非西欧諸国は屈服したのである。

<p31>
 西欧文明はもとローマおよびシリア文明の周辺文明として出発した。西欧国家の起源は、ゲルマン民族のひとつであったフランクを統一したクローヴィスが495年にカトリックに改宗したときにまでさかのぼりうるであろうが、これはまだ蛮族国家であって文明の段階に達しているとはいえない。西欧文明の誕生は、「封建国家」を確立したカール大帝西ローマ帝国の理念を復興し、カトリック世界を統一した紀元800年を中心とする時代-つまり5世紀から9世紀にかけての時代にもとめられるであろう。

 ここに、ローマ帝国の理念とキリスト教ゲルマン民族の精神とが、真に具体的に融合することができたからである。しカル、西欧文明がより本格的な文化的離陸を開始するのは、アラビア経由でギリシア文明が入ってきた「12世紀ルネッサンス」においてである。そしてこの地盤のうえに16、17世紀の「科学革命」により近代世界の知的中心となり、さらには18世紀に思想的には「啓蒙思潮」を生みだすと|可時に、経済的には「産業革命」を遂行した。

 西欧国民国家はこの資本主義的膨脹力により、地球のほとんど全表面をみずからの支配下におき、19世紀は世界のいたるところが西欧文明の「周辺文明」と化するがごとき観を呈した時代といえよう。

<p52>
 そもそも古代・中世・近代という今日一般的となっている時代区分そのものが、実は西ヨーロッパ史を基準としたものであり、「古代」とは「ギリシア・ローマ」の古典文明を意味し、「中世」とはそれが失われた「中間の時代」、そして「近代」とはこの失われたギリシア・ローマの文明をふたたび回復してくる「ルネッサンス」以後の時代を指している。

 そしてこの古代と中世を区切るものが「西ローマ帝国の滅亡」(476)であり、中世と近代を分かつものがしばしば「コンスターティノーブルの陥落」(1453)とされている。これらの歴史的事件が西ヨーロッパ史にとって、いかに重要な意味をもとうとも、全世界史的にみれば、例えばインド、や中国の歴史に何らのかかわりも持ちはしない。

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 ヴォルテールもルソーも初期のディドロも、神の存在を確信し、その存在証明を試みた人たちであるが、奇蹟や異象-まさにここに、ここにだけ「教会」は自らの権威を求めていた-を真向から斥けた点では一致している。そしてその根拠が、単に気分的ではあれ、自然の法則的斉一性への信仰にあり、またそれが何よりもニュートン物理学への絶対とも言うべきひよう拠に動機をもっていたことは疑われない。

 事実は、8世紀におけるイスラムの地中海制覇によって、ヨーロッパは地中海文明から締め出され絶縁されることにより、むしろ純粋にヨーロッパとなったのである。その後ヨーロッパはイギリスを迂回してわずかに地中海文明の余波にあずかる(カロリングルネッサンス)とはいえ、12世紀においてアラビア文化を介し、いわゆる「中期ルネッサンス」を迎えることにより、ここにはじめて西ヨーロッパはギリシア文化を本格的に受容することができたのである。したがってヨーロッパ人にとって、ギリシア文化は異教の民との接触によってかちとられたものであって、はじめから自らのうちに自ずとあったものではない。

 

2006/3/12(日)