25-21 一粒のケシの種

25-21 一粒のケシの種

2006/3/24(金)


 これも忘れられない話の一つです。たまたま、インターネットで再発見しました。


 インドのある村に、若いお母さんと、ご主人と、子どもがなかよくいっしょに、くらしていました。やっと、よちよち歩きをはじめた子どもは、お母さんのたからでした。ところが、そんなしあわせなある日、子どもが病気になって、たったひと晩のうちに亡くなってしまったのです。ものもいわないし、笑いも、泣きもしないつめたくなった子どもを、お母さんはしっかりとだきしめていました。お母さんは、まだ人の死ぬのをみたことがなく、人間はどんな人でも、かならず死ななくてはならないものだ、ということも、しりませんでした。

 あつまった人たちがいいました。
 「この子は、もう死んだのだ。だから、お葬式をしてやらないと・・・・・。」
 それをきいたお母さんは、
 「なにをいうのですか。わたしの子どもは、病気にかかっているだけです。薬さえ飲めば、すぐなおってしまいます。」
 そういって、みんなを追いかえしてしまいました。

 お母さんは、つめたくなった子どもをだいて、村から町へ、一けん一けんたずねて歩きました。
「わたしの子どもは、こんなふしぎな病気にかかりました。なにか、良いお薬をおしえてください。」  それをきいて、みんないいました。
 「かわいそうに。この子は、もう死んでいるのです。死んだものにのませる薬など、どの世界にもありませんよ。」
 お母さんは、どうしても、なっとくできませんでした。
「そんなはずはありません。どこかに、きっといいお薬があります。この子にのませるお薬をしっている人が、きっと、どこかにいらっしゃいます・・・・・・。」
 ひとびとは、そっとなみだをふいて、顔をそむけました。

 ある町で、しんせつな男の人がお母さんにいいました。
 「よいお薬の知っている方を、おしえてあげよう。」
「どなたです。そんな人が、いらっしゃるのですか。おしえてください。どうぞ、おしえてください。」
 「いま、あの山の上で、お釈迦さまが、みんなに尊いおしえを説いていらっしゃる。あの方なら、きっとごぞんじだろう。」
 お母さんは、すぐに、お釈迦さまのところへかけつけました。
 「あなたは、この子どもにのませるお薬をごぞんじだそうですが、おしえてくださいませ。おねがいでございます。」
 お釈迦さまは、にこにことほほえまれて、
 「おしえてあげよう。」
とおっしゃいました。
 「ああ、よかった。そのお薬さえのめばこの子はきっと元気になります。どうぞはやくそのお薬をおしえてください。」

 「かんたんなことだ。ケシの種を一つぶのませれば、すぐによくなる。」
 「ケシの種ですね。どうすれば、手にはいりますか。」 
 「どの家にもケシの種はかならずある。その家にいって、もらえばそれでいいのだ。しかし、一つだけむつかしいことがある。」
 「どんなことでございますか。」
 「昔から死んだ人のいない家のケシの種でないと、だめなのだ。」

 お母さんは、お釈迦さまのことばが、どんなにうれしかったことでしょう。死んだ子をしっかりとだきかかえると、山をかけおりました。
 「ケシの種をください。一つぶ。」
 「おやすいことですよ。」
 「ところで、おたくには昔から死んだ方は、いらっしゃいませんね。」
 「ついこのあいだ、おじいさんが死んだばかりです。」
 「それではお返しします。亡くなった方がいるお家のケシの種は、お薬にならないのです。」

 つぎの家でも、おなじでした。
 つぎの家も、つぎの家も・・・・・・。
 お母さんは、一けん一けんたのんで歩きました。どの家も、すぐケシの種をだしてくれたのですが、たずねてみると、だれかが亡くなっているのでした。
 たった一つぶのケシの種をもらうだけなのに、お釈迦さまのおっしゃったような、亡くなった人のいない家は、一けんもありませんでした。

 夜明けがた、お母さんは、しっとりと露にぬれた草の上にすわって、じっと、目をとじていました。
 そよそよと吹いてくる夜明けの風に、草の葉っぱの先から、きらきらと光った、いくつものちいさな露が、こぼれておちました。
 -そうだったのか・・・・・・。
 お母さんのこころは、さわやかな朝の光りのなかで、だんだんとおちついてきました。

ー以下省略ー

引用
 中川 晟 ほとけさまのまなざし・五百人目の子ども(本願寺出版社)より
 http://www.terakoya.ne.jp/terakoya/douwa2.htm