22-25 言霊思想と仏教の受容

22-25 言霊思想と仏教の受容

2007/4/11(水)


 仏像が成立したとされるのは、紀元一世紀の頃とされている。仏像はクシャン朝の版図であった、ガンダーラやマトゥーラで製作され始めた。しかし、経典の成立時期については明らかではない。明らかでないというより問題として意識されていない、ということができる。

 この点については、このブログでも度々述べている。33-01 経典の書写の始まり、33-08 経典の成立、などである。そこでは、経典の成立と仏像の成立とは不可分の関係があることを強調した。

 先日、テレビの番組『知るを楽しむ 日中二千年の漢字のつきあい』(NHK教育TV 07/04/05)で興味深いことをいっていた。日本に漢字が入ったのは紀元前後の弥生時代のことである。ところが漢字が普及し始めたのは、六世紀の末から七世紀にかけてである。最初の移入から普及まで500年以上の時間が経過している。

 ここに仏教の経典と仏像の成立までの時間の経過に似た経緯をみることができる。古代ヤマト民族は八百万の神を信じていた。言葉にも「言霊」(ことだま)のいう霊力があると考えていた。ヤマト民族の固有語である「大和言葉」では、「事」と「言」を区別せず、「言」の一語で表す。「言説」と「事象」を、峻別しなかった。「死ぬ」という不吉な「言」を口にすると、本当に「死ぬ」という「事」が起きる。このように考えていた。このような考え方を「言霊思想」という。

 古代大和民族の言霊思想によれば、「言挙げ」すなわちことさら言葉にして言いたてることは、タブーであった。柿本人麻呂歌集の「長歌」に「葦原の瑞穂は神ながら言挙げせぬ国」と歌っているように、言霊思想は自覚されていた。

 そのような言霊思想をもった古代ヤマト民族の目には、漢字は、言霊を封じ込めて保存する異国の魔法のように見えたのではないだろうか。また、神も形で表すことをしなかった。神は一時的に身近な石や山に降りてくるのみで見えない存在であり、形に表すことなど思いも及ばなかった。言霊思想は、単に言葉だけのものではなく、聖なるものを形に表すことへの畏れであった、ということができよう。

 仏教は長い間、口伝で伝えられてきた。文字で書写され経典として成立したのは、かなり後の時代になってからである。この理由についてさまざまなことがいわれているが、日本の場合と同様な古代文化がインドにもあったという。私は経典の成立の時期をマウリア朝のアショカ王の時代以降のことと考えるが、マウリア朝の成立は仏教がインドの「言霊思想」を克服する契機となったと考える。

 この時代、アショーカ王の碑文が残されているように、公に文字が使用されるようになった。また、この碑文は地方ごとに異なる文字が使われた。言葉を文字で表すことのタブーがこの碑文によって、解消されたのではないか。仏陀を像に表わすことのタブーを破ったのはクシャン朝の王であろう。最初期の仏陀像が金貨に彫られていることはこのことを意味する。

 十七条の憲法が文字で示されたのは、アショカ王の碑文との類似性を想起させる。日本では聖徳太子がこの役割を果たした。聖徳太子は、言霊の国に漢字を普及させた。漢字の普及は仏教の受容とセットとされ、両者が一体となって日本に根を下ろしていった。

 中国では、言霊信仰はなく甲骨文字に見られるように神の意思は文字に現れると考えていた。法華経の場合は、法華経の書写された経典を神聖視する傾向があるが、これはインド文化にはない特徴と言える。