燃えている

燃えている

2013/8/28(水)

 

 ブッダは、欲望への執着が苦の原因である、としている。それではその欲望とはいかなるものか。その内容を考える目にその激しさ、執拗さについての仏典に注目していただきたい。

 先ず、愛欲は蔦や根に譬えられる。(スッタ・ニパータ)
334 恣のふるまいをする人には愛執が蔓草のようにはびこる。
335 この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。──雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。
337 さあ、みんなに告げます。──ここに集まったみなさんに幸あれ。欲望の根を掘れ。
 ここで強調されているのは欲望の執拗さ、根の深さである。

 また、すべての欲望に火がついて燃えているという。
 ブッダが悟りを得たあと、三人のカッサパ兄弟が、千人の弟子をひきつれて、ブッダの弟子となり出家したという有名な出来事がありました。このときブッダの説法が「象頭山の説法」である。

   よく見るがいい。下界は燃えている。
   下界の者たちは感覚的・物質的快楽にふけり、
   三毒の火がついて、おのれの身も心も燃えている。
   彼らを取り巻くものさえ燃えている。
   欲望に火がついて、その火に追い回され、
   背中に火を背負って逃げ回っている。
   目が燃えている。目の欲望が燃えている。
   耳・・・。鼻・・・。舌・・・。身・・・。心・・・。
   人のすべての欲望に火がついて燃えている。
(『雑阿含経』燃焼)

 ブッダが見た欲望はこのように蔦のように執拗で、火がついて燃え上がっていた。一体欲望とは何なのか。