17-09 南獄慧思の末法思想

17-09 南獄慧思の末法思想

2007/4/26(木)


 天台大師智顗(ちぎ)の師であった南岳慧思(なんがくえし)は、五五八年に『立誓願文』(りゅうせいがんもん)を書いた。また、慧思は「般若経」を金字で書写し、七宝の箱におさめた。弥勒が現れたとき、この経典を説いていただくためである。これによって多くの人々が救われることを願って、誓いをたてたのだ。この願文は、自分たちが末法の時代のただなかにいる、と述べている。中国における末法意識のもっとも早い表明である。

 では、末法という思想はどこから出てきたのか?
 四八○年ごろ、エフタルと呼ばれる中央アジアの民族が北西インドに侵入した。ョ-ロッパを襲ったフン族がこれだという説がある。インドは分裂し、仏教教団も大変な打撃をうけた。そのような混乱と社会不安の中から、末法という危機の思想が生まれたと考えられている。

 五五六年にナレンドラヤシャス(中国名は那連提耶舎 なれんだいやしゃ)が中国に亡命してきた。その十年後の五六六年に『大集経月蔵分』(だいじっきょうがつぞうぶん)が訳された。これによって末法思想が広まったとされる。

 『立誓願文』が書かれたのは、それより八年前だった。『大集経月蔵分』の訳が完成するよりも早く、慧思はなんらかのかたちで末法思想についての情報を得ていたらしい。もちろんこれはひとつの仮説である。末法思想は外国製、というのが前提になっている。そうではなくて、正法と像法と末法という三段階の考えかたは中国製、という意見もある。いずれにしても、中国ではじめてそれが宣言されたのが「『立誓願文』ということにかわりはない。

 さて、『立誓願文』には月光童子も登場する。「月光菩薩」という名で出ているが、お薬師さんの両脇にいる日光と月光のかたわれではない。いま問題になっている月光童子のことである。次のように言う。
 
「(釈迦が亡くなってから)九千八百年のちに末法の時代がおとずれる。そのとき月光菩薩が中国に現れ、釈迦の教えを説いて、多くの人々を救いに導く。五十二年して世を去ったのち、『首楞厳経』( しゅりょうごんきょう)と『般舟三昧経』(はんじゅざんまおきょう)がまず消えてなくなり、ふたたび現れることはない。他の経典もしだいに消えてなくなる。『無量寿経』は世に出てから百年のあいだ多くの人々を導き、やがて消えてなくなる。それからあとは、ろくでもない世の中になってしまう」と。

 月光童子のはたす役割は、『法滅尽経』に語られたところとほとんど変わりがない。しかし、末法の世に人々を導く存在となった点が、時代を反映していると言えよう。ここでは、もろもろの経典が消えてなくなったあと『無量寿経』だけが一時存続し、いずれ消滅すると説かれている。その点にも注目したい。『無量寿経』は阿弥陀信仰にとってもっともだいじな経典のひとつである。やがて人々の信仰の対象は弥勒から阿弥陀へと移ろうとしている。これはそれよりだいぶ前ではある。