『蜘蛛の糸』異説

蜘蛛の糸』異説

2013/10/9(水)

■ はじめに

 『蜘蛛の糸』は芥川龍之介(1892 - 1927年)の短編小説です。世話になっているお寺の広間の壁にはこの物語の紙芝居の絵が飾ってありました。そのあらすじは祖母から聞かされて知っていました。しかし、長じてから原文を読んでみるといくつかの疑問が出てきました。

■ あらすじ

 釈迦はある時、極楽の蓮池を通してはるか下の地獄を覗き見た。幾多の罪人どもが苦しみもがいていたが、その中にカンダタ(犍陀多)という男の姿を見つけた。カンダタは生前に様々な悪事を働いた泥棒であったが、一度だけ善行を成したことがあった。小さな蜘蛛を踏み殺そうとしたが思いとどまり、命を助けてやったのだ。それを思い出した釈迦は、地獄の底のカンダタを極楽へ導こうと、一本の蜘蛛の糸カンダタめがけて下ろした。

 極楽から下がる蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸をつたって登れば、地獄から脱出できるだろう。あわよくば極楽に行けるかもしれない」と考える。そこで蜘蛛の糸につかまって、地獄から何万里も離れた極楽目指して上へ上へと昇り始めた。ところが糸をつたって昇る途中、ふと下を見下ろすと、数限りない地獄の罪人達が自分の下から続いてくる。このままでは糸は重さに耐え切れず、切れてしまうだろう。それを恐れたカンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前達は一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ」と喚いた。すると次の瞬間、蜘蛛の糸カンダタのぶら下がっている所から切れ、カンダタは再び地獄に堕ちてしまった。

 その一部始終を見ていた釈迦は、カンダタの自分だけ地獄から抜け出そうとする無慈悲な心と、相応の罰として地獄に逆落としになってしまった姿が浅ましく思われたのか、悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。

■ 極楽と釈迦

 極楽浄土の教主は阿弥陀如来であって釈迦如来ではありません。また、極楽浄土は西方十万億の仏土をすぎた彼方にあります。蓮池のそこから地獄が見えるような位置関係にはありません。従って、お釈迦様が極楽浄土の蓮の池から地獄をのぞき見ると言うことはあり得ないことです。この間違いは、当時の知識人の仏教理解の水準を反映しているものだと思われます。 


■ 釈迦のきまぐれか

 カンダタが自分だけ助かろうとするのは当然予測できることでした。様々な悪事を働いた泥棒だったのですから。それを予測できなかったためにカンダタにさらに罪を重ねさせ、地獄への逆落としというつらさ極まる思いをさせてしまったことになります。これではカンダタは釈迦の気まぐれの道具にされてしまったようで気の毒でなりません。そのように思っていたところ、小松左京が同様のことを述べていることに気がついたので紹介します。
彼はまず、「カンダタが糸を放せと言ったのは当然」と評してこの作品を批判した上で、別世界の話として、同名の短編小説で、この作品のパロディを書いています。
 
■ 小松左京のパロディ

 そこでは、地獄に堕ちたカンダタ蜘蛛の糸を降ろされ、それを伝って上がり、ふと下を見ると、他の者も上がってくるのを見る。しかし、彼は彼らを追い落とすより、慌てて伝い上がることを優先、しっかり極楽に上がる。ただし釈迦はこれに驚いて、他の亡者の登上を阻止しようとして失敗、代わりに地獄に堕ち、亡者たちは極楽へ。
しばらくたった後、カンダタが地獄を覗くと、釈迦が血の池で苦しんでいる。彼は以前のことを思い出し、蜘蛛の糸を降ろす。釈迦がそれに気がついて昇り始めるが、ふと下を見ると、何と地獄の鬼や閻魔まで昇ってくる。「お前たちそれは駄目だ」というと、蜘蛛の糸は切れ、釈迦は地獄へ真っ逆さま。

■ 最後に

 小松左京の小説はかなり辛辣です。芥川龍之介の小説を見事にたたきのめしています。しかし、ことはこれで終わりません。仏教の浅薄な理解がこのような小説を生み出し、また流通させているのです。浅薄な理解をどう超えるか、それが私たちに課せられた課題だと思います。

 最後に私もパロディを一句  芥川 ならば底には 地獄なし