No.09 思わぬ出会い

□No.09 思わぬ出会い

 


 旅の三日目はウルムチから敦煌への移動である。ウルムチの空港の待合室で搭乗を待っているところで思わぬ人に出会った。ウルムチ新疆ウイグル自治区の区都で、北天山の北麓、ジュンガル盆地の南縁に位置する内陸都市である。日本からは5000km近く離れた遠隔の地である。

 同じ団体に属する人を除くと待合室には日本人はほとんどいなかった。しかし、隣に座った人が日本人であった。中部国際空港から出発して一人で旅をしているのだという。私も東海地方に住んでいます、と答えると、思わず、握手となった。

 その方はKさんといって、岐阜市内の美術館に勤務されておられるとのことがわかった。その美術館は、沙羅樹(夏椿)が庭に植えられ、花の咲く時期には平家琵琶平家物語が演奏されることで有名である。私も岐阜市に住んでいます、ということで再び握手。岐阜市での再会を約した。

 そのKさんから手紙をいただいた。帰ってからは、たまった仕事を片付けるのに追われたり、体調を崩したりしてまだ会いに行くことができないでいた。川井さんはまもなく中原への旅に出る予定とのこと。その元気さに脱帽というところである。

 その手紙に、MIHO MUSEUMの特別展の招待券が2枚同封されていた。MIHO MUSEUMは、滋賀県信楽町にある美術館。そこで秋期特別展『中国 美の十字路展 ~大唐文明への道』が開催されている。わずかな時間の話で私の関心を見抜き、わざわざ招待券まで送ってくださったKさんの気配りには感謝である。

 特別展のチラシの文章である。
 「後漢の滅亡(3世紀)から唐代(7世紀)に至る数百年間は不安定な混乱の時代とみられがちですが、ローマ、ペルシア、インド、中央アジア北アジアなどの異なった民族や文化の精華が行き交い、やがてきらびやかな国際文化ー大唐文明を生み出した偉大なる創造の時代であったと言えます。」

 歴史の見方が大きく変化しようとしている。仏教にとってもこの「不安定な混乱の時代」は、隋、唐に花開いた中国仏教の揺籃期であった。

関連Web

00-01 関連Webサイト

2006/3/7(火)


 私の関心は飛鳥時代聖徳太子、仏教です。ここで紹介するWEBサイトはこの関心に沿って集めたものです。それにしても広隆寺の公式サイトがないのが不思議です。

■ 日本の博物館
奈良国立博物館』 http://www.narahaku.go.jp/
京都国立博物館』 http://www.kyohaku.go.jp/
『国立歴史博物館』 http://www.rekihaku.ac.jp/
東京国立博物館』 http://www.tnm.jp/jp/
九州国立博物館』 http://www.kyuhaku.com/pr/

■ 韓国の博物館 いずれも日本語に対応しています。
『韓国国立中央博物館』 http://www.museum.go.kr/
『韓国国立慶州博物館』 http://gyeongju.museum.go.kr/

■ 歴史都市
斑鳩町』 http://www.town.ikaruga.nara.jp/
桜井市』 http://www.city.sakurai.nara.jp/
『明日香村』 http://www.asukamura.jp/
奈良市』 http://www.city.nara.nara.jp/
奈良県』 http://www.pref.nara.jp/

■ 道と川
『奈良歴史街道 http://www.pref.nara.jp/nara/kaido/index.html
歴史街道』 http://www.rekishikaido.gr.jp/
『ならの古道』 http://www.kkr.mlit.go.jp/nara/kodo/
『初瀬街道』 http://www.geocities.jp/hasekaido/index.html
熊野古道』 http://www.kumadoco.net/kodo/index.html
大和川』 http://www.yamato.kkr.mlit.go.jp/YKNET/index.html
吉野川分水について ~300年の夢~』 http://www.pref.nara.jp/kochi/syokai/bunsui.htm

■ 寺社
法隆寺』 http://www.horyuji.or.jp/
中宮寺』 http://www.horyuji.or.jp/chuguji.htm
法起寺』 http://horyuji.or.jp/hokiji.htm
法輪寺』 http://www1.kcn.ne.jp/~horinji/
広隆寺
四天王寺』 http://www.shitennoji.or.jp/
東大寺』 http://www.todaiji.or.jp/
興福寺』 http://www.kohfukuji.com/
春日大社』 http://www.kasugataisha.or.jp/
薬師寺』 http://www.nara-yakushiji.com/
唐招提寺

■ その他
『なら・シルクロード博記念国際交流財団(NIFS)』 http://www.pref.nara.jp/silk/
文化遺産オンライン』 http://bunka.nii.ac.jp/jp/index.html
『国営飛鳥歴史公園』 http://www.asuka-park.gr.jp/index2.html
『あすかびと』 http://www.asukabito.or.jp
『高松塚』 http://www.nara-shimbun.com/special/takamatu/
斎宮歴史博物館』 http://www.pref.mie.jp/SAIKU/HP/
『風俗博物館』 http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/fukusei/index.htm
『日本文学電子図書館』 http://www.j-texts.com/
『歴史地理学会』 http://wwwsoc.nii.ac.jp/hist-geo/
『列島いにしえ探訪問』 http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/index.htm

中国仏教1

00-02 中国仏教 1

2006/5/21(日)


◆はじめに

 中国における仏教の歴史は大乗仏教が定着・成立する歴史でもあった。中国においては、大乗の仏教も小乗の仏教もいずれも釈迦が説いたものとされ、大乗に対する偏見・差別がなかった。また、大乗の「空」が老荘の「無」を通して理解されるなど大乗を受容する文化があった。

 中国において大乗仏教が定着したのは、鳩摩羅什の翻訳活動による。鳩摩羅什が大量の大乗経典に加えて、論師龍樹の『中論』や『大智度論』などの論書も漢訳した。鳩摩羅什自らが大乗仏教に傾倒していたこともあって、ここに大乗の優位が確立した。その後、経典を釈迦の一生に合わせて整理しようとする「教相判釈」が試みられるが、いずれも大乗優位の観点が取られている。

 ところが、中国仏教は思わぬ難問に遭遇する。中国仏教はこれらの難問を見事に切り抜け、中国仏教を確立する。


◆出家教団の戒律・禅観法

 インドにおいては、『般若経』や『法華経』など大乗の経典は成立したが、大乗の出家教団は成立しなかった。法顕や玄奘旅行記の記述や発掘の結果を見る限り、インドにおいては大乗が主流になることはなかった。「大乗の出家教団」という考え方もなく、僧院の中の戒律は小乗の教団の戒律を踏襲していたにすぎない。禅観の修行方法においても、独自に確立したものを有していなかったようである。大乗の禅観経典というものもなかったのではないか。

 したがって、中国でその穴埋めをする必要に迫られた。インドからもたらされるのは、小乗の律蔵のみである。『十誦律』『四分律』などの律部経典がそれである。そこで、中国での律蔵の撰述が行われる。『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』である。この律蔵を契機として、大乗の戒律が整備される。

 また、禅観経典についても穴埋めが行われる。『観無量寿経』のサンスクリット原本はなく、西域(東トルキスタン)かあるいは中国において編纂されたものではないかとされている。頭に「観」とつく大乗系の経典については編纂された地域を見直してみる必要がある。


◆仏像の位置づけ

 仏像は小乗仏教の発展のなかで発生したものである。ところが、中国においては仏像の移入が仏教の移入に先行している。大乗仏教の「空」と仏像の存在はむしろ矛盾するものである。しかし、この調整はかなり早い時期になされた。支婁迦讖は『般舟三昧経』の漢訳にあたり、見事その矛盾を解決した。その結果、仏像を前にした禅観という方法が生み出された。「般舟三昧」それである。


◆中国仏教の確立

 インドにおいては一世紀の頃大乗仏教が興起し、やがて小乗仏教に取って代わるほどの勢力なった。中国ではそのように理解されていた。その結果、中国ではさまざまな困難に遭遇しながらも大乗仏教を確立した。その精華が天台教学である。しかし、本当の意味での中国仏教の確立は、浄土と禅ではないか。仏教が中国固有の文化である、儒教道教と相互に影響を与えながら、成立したのが浄土と禅であると言えるのではないか。


◆仏教の普遍性と土着の神

 仏教はその発生において、土着性を一切持たなかった。釈迦がさとった真理は古来からあるものとされた。それゆえ、仏教は普遍性があり、新興の王族や商人の支持を受け、民族や地域を超えて普及した。しかし、仏教は広がってゆく過程でその土地の「神」と衝突する。しかし仏教のもつ寛容性はここで土地の神と融和する。相互に影響を与えながら、定着する。この定着したものが仏教である、という観点が必要のように思われる。

中国仏教2

00-03 中国仏教 2

2006/6/25(日)


■ はじめに

 中国への仏教の伝来にあたっては、紀元二世紀以降、一挙に伝来することになった。インドでの仏教の展開の事情は伝わらず、大乗・小乗の仏典が同時に伝わり、そのため、中国では仏教を受容する上でいくつかの困難な問題にぶつかることのなった。それは次の三点である。

 (1)仏像の問題
 (2)戒律の問題
 (3)禅観法の問題


■ 仏像の問題
 
 仏像は一世紀にクシャン朝のもとにあったガンダーラとマトゥーラで制作され始めた。仏像の制作は小乗仏教の発展の中で始まったものであり、大乗仏教とは無関係であったと考えられる。ところが中国へは仏教の経典や教理よりも先に仏像が入ってきてしまった。中国においては、仏像抜きの仏教は考えられないという環境が先にできてしまった。

 大乗仏教の経典を最初に漢訳したのは、二世紀の後漢の時代に西域から渡来した支婁迦讖(しるかせん)である。支婁迦讖は漢訳にあたって仏像との整合性を図ったようにと思われるところがある。梶山雄一氏が『般舟三昧経』(はんじゅざんまいきょう)についてその「誤訳」を指摘しておられる。しかし、それは誤訳ではなく、仏像の存在にあわせるための意図的な改訳、あるいは創作ではなかったのか。
 支婁迦讖の漢訳によって、『般舟三昧経』の「般舟三昧」は禅観法として受容され、後の五世紀の初頭に廬山の慧遠によって念仏結社「白蓮社」が結成される。この動きが、中国の浄土教の源になる。さらには、天台智顗によって摩訶止観に取り入れられた。


■ 戒律の問題

 『般若経』や『法華経』などの大乗経典はインドで編纂された。インドでこれらの経典が発見されることは少ないが、論師の龍樹や世親の論書に引用されていることから編纂はインドでなされたことがわかる。しかしインドでは大乗仏教の運動が盛り上がることはなく、大乗の教団というものも存在しなかった。

 教団のないところに戒律もない。中国においては仏図澄(ぶっとちょう)以後教団が公認されるにいたった。ところが、模範にすべき教団も戒律もインドにはなく、当然のこと、中国にも伝わっていない。中国においてはこの事情は解っていない。大乗の戒律は無いのではなく伝えられていない、と思うものもいた。

 釈道安(しゃくどうあん)はすでに漢訳された経典の整理をするとともに、戒律に関する経典の漢訳もすすめた。しかし、それでも不十分であった。法顕はその状況を嘆き、インドへの求法の旅を決意した。仏典の中でも戒律は文字化され書写されることは少なく、口伝によって伝えられることが多かった。それゆえ、法顕はインドへ着いた後も、戒律の入手には苦労をしている。

 法顕はそれでもいくつかの戒律は入手したのだが、すべて小乗部派のものであった。前述したように、五世紀初めのインドにもまだ大乗の教団というものはなく、大乗の僧も小乗と同じ戒律にしたがっていた。ようやくその事情がわかってきたのか、中国ではその後「大乗の戒律」の編纂が試みられることになる。


■ 禅観法の問題

 禅観法についても、戒律と同様の問題があった。大乗独自の禅観法というものがインドに成立していなかった。禅観に関する経典の多くは「観」という文字が頭に付されている。『観無量寿経』はその代表的なものの一つである。この経典についてはサンスクリット語の原典がなく、西域あるいは中国で編纂されたものではないかといわれている。編纂の地の不思議さは、『観無量寿経』にとどまらない。

 鳩摩羅什もいくつかの大乗の「禅観法に関する経典」を訳している。しかし、それらの大乗の禅観法については原典は明らかでない場合がある。支婁迦讖が仏像の存在を前提として、「般舟三昧」という禅観法を創出した。その後の中国仏教はどいうやら、その影響を免れることはできなかったようである。鳩摩羅什も支婁迦讖の敷いたレールの上を走ることにしたようである。


■ 最後に

 こうして、インドにはない、大乗の教団が中国に成立することになった。仏像の存在と結びつき、インドにはなかった戒律と禅観法をもつ中国の大乗教団が成立することになった。唐の時代の末期から宋の時代にかけて中国には禅宗が登場する。この禅宗の登場の意味は大きい。禅宗は初めて上記の呪縛から免れることができた中国的な仏教ではないのか。

 また、日本への伝来においてもこの問題は尾を引いた。最澄大乗仏教を更に純化しようとした。例えば、中国においては、小乗の戒律の上に大乗の戒律をいわば接木的に乗っけたものを戒律としていたが、最澄は小乗の戒律を否定してしまった。

 

仏教史の再構成

00-04 「仏教史の再構成」の試みとは

2006/11/17(金)


■ はじめに

 『仏教の歴史散策』のテーマは仏教の歴史の見直しの提案の試みである。インド伝来の仏教が中国で変容しつつ定着した、というのがこれまでの捉え方であろう。どうやら、「大乗仏教は中国において成立した」ということを認めなければならない。大乗経典の多くはインドで作成された。特に初期の大乗経典といわれる、般若経典群や法華経などはインドで作成された。しかし、インドで大乗仏教の運動が始まり、小乗仏教に取って代わるほどの大乗教団ができたかというと、どうもそうではないのである。

 ショペンの碑文研究の成果はこのことを示している。遺された碑文からは大乗仏教の教団の存在をみつけるのは難しい。後の時代の法顕(五世紀初め)や玄奘(七世紀)の旅行記(『法顕伝』『大唐西域記』)の記述を見ても、インドでは小乗仏教がなお支配的であったことがうかがえる。


最澄の天台の再評価

 大乗仏教に関するインドと中国の位置づけを上記のように考えると、中国の仏教史ばかりでなく、さらには日本の仏教史の見直しも必要となってくる。日本の仏教に関することからのべることとする。

 最澄がなぜ天台に着眼したのか。天台は中国では200年も前の隋の時代に成立した教学である。最澄のこの天台への着眼を、「アナクロニズム」とさへ評した人もいる。また、最澄の一途な真面目さの故であった、と個人的資質に即して説明する人もあった。しかし、歴史の流れというものをみなければならない。

 奈良時代は、南都六宗を始めとして当時の中国や朝鮮から移入された諸種の宗派が栄えた。奈良仏教は未だ輸入仏教の域を出ていなかった。六宗のうちに、小乗仏教系の「成実宗」や「倶舎宗」がふくまれているなど、大乗・小乗が未分化の状態である。

 最澄は、南都六宗に代表される奈良仏教の問題点を正しく理解していた。小乗と大乗が未分化で、大乗仏教として未完成であった。大乗仏教に相応しい戒律も、禅定法も確立していなかった。天台の移入によって日本の仏教にも禅定法が確立された。しかし、最澄にとっては「大乗の戒律」が未解決の問題として残った。


■ 他の問題への波及

 しかし、「インドにおいては大乗仏教が運動や教団として定着することがなかったと」とみることは、仏教史の他の諸問題についても再考を迫ることにもなる。

 ◇ 仏像の制作

 仏像の制作の始まりの時期は一世紀初頭であり、大乗仏教の諸経典の成立した時期と重なる。したがって、大乗仏教と仏像制作が密接な関連があるという考え方がある。しかし、小乗仏教の発展のなかで、仏像が制作され始めたとみるべきである。
 大乗仏教の特徴は多仏思想である。釈迦のほかにも阿弥陀如来薬師如来などの仏の存在を認める。しかし、阿弥陀仏像の銘のある台座の部分が一例のみ残る他は大乗の仏像と思われるものは、インドや西域では見つかっていない。

 ◇ 大乗の戒律と禅定法

 インドで大乗教団が成立しなかったということは、「大乗に相応しい戒律と禅定法」も未確立であった、ということになる。ところが、当時の中国においてはそうは考えなかった。インドには大乗教団が成立しており、中国はその受容に努めなければならない、と考えた。

 結果的に、その努力は天台教学の確立という形で成功した。しかし、中国において、「大乗に相応しい戒律と禅定法」をどのようにして「受容」したのか。「偽経」の問題の遠因もここにあると思われる。中国仏教を大乗仏教にしたのは、鳩摩羅什である。彼は漢訳事業に際して、龍樹の「空」の思想を持ち込み、『中論』や『大智度論』などの論書も訳したばかりでなく、『法華経』や『無量寿経』などの経典の訳も龍樹の中間思想の影響のもとになされた。鳩摩羅什は、大乗仏教という「宝」を中国にもたらしたが、その大乗仏教は「未完成」であった。大きな宿題を中国に残したのである。

 

天台から

00-05 天台へ! そして天台から!

2006/11/27(月) 午前 10:25 000 はじめに 歴史

facebookでシェア
twitterでつぶやく


■ はじめに

 先ほど、標題の一言メッセージを「天台へ! そして天台から!」と書き替えた。ようやく、書きたいことが見えてきた。最初の「天台」は天台智顗の確立した中国の天台教学、後の「天台」は最澄の開いた日本の天台宗のことと理解していただきたい。便宜上、中国の天台を「天台教学」、日本の天台を「天台宗」と呼ぶこととする。


■ 天台へ!

 中国では漢の時代に仏教が伝来し、西域から渡来僧や仏典が入ってきた。すでに二世紀の後漢の時代には仏典が漢訳され、その後陸続と渡来僧が訪れ、仏典の漢訳も数を増した。五世紀の初頭に、亀茲国(きじこく)出身の鳩摩羅什(くまらじゅう)が後秦の姚興(ようこう 在位394~416年)に都長安へ招かれた。そこで仏典の一大漢訳事業が行われ、初期の大乗経典のほとんどが揃った。

 鳩摩羅什は、大乗と小乗の別を明確にし、中観仏教をもたらし、大乗仏教の優位を定着させた。しかし、大乗の戒律、大乗の禅定法はいまだ十分に伝わらず、他方で、中観仏教の「空」を虚無的に理解するものも現れた。

 大乗の戒律・大乗の禅定法というのは本来インドにおいても確立しておらず、中国においてその穴埋めが行われたといってよい。天台教学は戒律、禅定法の穴埋めをし、戒・定・慧(かいじょうえ)の三学を備えた大乗仏教を確立したということができる。

 仏教が中国に伝来してからの多くの人々の営みが天台教学として花開いたのである。「天台へ!」というのはこのような意味である。


■ 天台から!

 中国の天台教学の総合化の試みが日本でも必要とされた。六世紀初めに朝鮮の百済から仏教が伝来され、七世紀以降は遣隋使や遣唐使の派遣によって中国の新しい仏教が次々ともたらされた。その成果が南都六宗である。その南都六宗を総合化し、戒律と禅観法を確立し、大乗仏教としての日本の仏教を確立しようとしたのが最澄の「天台宗」である。中国の魏晋南北朝時代の仏教と奈良時代の仏教は、いまだ体系化・総合化される前の揺籃期の仏教の時代という点で似ているということはできないか。 


■ 天台の流伝

 中国で天台教学が成立したのが六世紀の末、その天台教学が日本に流伝し、天台宗が成立したのが九世紀の初頭である。その間にあるのが二世紀という歳月である。日本では埋もれてしまっていた法華という水脈を掘り当てたのは最澄である。

 最澄は、鑑真の一行がもたらした天台の論書に遭遇する。最澄はそこに展開されている天台教学にひかれた。なかでも最澄がひかれたのが天台止観である。奈良仏教は華厳宗などを除くと禅観法は確立していなかった。天台教学は完成された禅観法をもっていた。

 法華という水脈は、聖徳太子につながる水脈である。最澄は中国天台を「再発見」し、同時に日本の法華の伝統も再発見したのである。

三国伝来の再考

00-06 「三国伝来」の再考

2007/5/2(水) 午後 3:50 000 はじめに 歴史

facebookでシェア
twitterでつぶやく


 仏教の歴史において、インドの仏教をどのように位置づけるかについて見直しが必要となってきている。仏教はインドで釈迦によって始められた。しかし、釈迦の仏教は今私たちが接している仏教とはずいぶん異なったものであった。まだ、経典も、仏像も、大乗仏教もなかった。
 
 釈迦の仏教はその後、インド全体に広がり、さらには西北インドにまで拡がり、中国に伝わり、さらに中国や朝鮮を経て日本に伝えられた。そして、今私たちが日本において接しているような仏教となった。このような経緯から、わが国仏教を「三国伝来の仏教」ということがある。

 しかし、今日、この伝来の事情をつぶさに見てゆくと、見直しが必要となってきているように思われる。大乗仏教に関していえば、インドで発芽した大乗仏教を育て開花させたのは中国ではないのか。初期の般若経法華経などの経典はインドで作成された。また、龍樹の中論もインドで作成された。しかし、インドでは大乗の教団は定着することはなかった。

 また、大乗仏教が興起したと伝えられる頃、インドではガンダーラやマトゥーラで仏像が制作され始めた。仏像の制作の多くは、当時有力であった説一切有部派のもとでなされたものである。説一切有部派有力なスポンサーを抱え、寺院やストーパの建造にもかかわっていて、仏像の制作も可能であった。大乗仏教の運動は細々としたものであり、仏像を制作するような財力は持っていなかったであろうし、初期般若経典の空思想と仏像は相容れないものと考えられる。

 仏教の中国への伝来は、仏教に革命的変化をもたらした。インドでは大乗仏教小乗仏教に取って代わって主流になっているように伝えられ、さらに、大乗仏教と仏像が一体的関係にあるようにつたえられた。中国の仏教が大乗一色になったのは、五世紀初頭の鳩摩羅什の訳業以降のことである。これは鳩摩羅什に、自ら傾倒した大乗仏教を中国という新天地に展開したいという野望があったこともあろう。

 しかしながら、大乗仏教の定着は仏教を受け入れる中国側の事情の方が大きいのである。中国では、仏教を老荘思想を通じて受け入れようとした。大乗仏教の「空」と老荘思想の「無」との間に親和性があった。中国で「空」を正しく理解できるようになるには。鳩摩羅什の訳業の後も更に一世紀近くの時間を費やしている。しかし、老荘思想の地盤があって仏教ははじめて受容されたといってよい。老荘思想と仏教は、その後も相互に影響を及ぼしあっていった。唐の時代の晩年になると、禅宗が盛んになるが、禅宗は仏教が老荘思想の深い影響のもとで成立したといえる。

 仏教が中国の土着思想との相克のなかで、中国に受容された。インドでは花が咲かなかった大乗仏教は、この相克のなかで中国に根付き、花を咲かせることができたのだ。インドから中国への仏教の伝来は、むしろ断絶と創造の側面の方が強い。

 中国で花開いた大乗仏教が日本に伝来された。ここで、大乗仏教はもう一つの飛躍を遂げることになる。中国の大乗仏教は、戒律はインドから伝えられた小乗仏教の戒律をベースにしていた。その点でまだ、インド仏教の痕跡を残していた。しかし、最澄が中国の大乗仏教を日本に受容する段階で、この痕跡も消し去ってしまった。「大乗の戒律」をつくってしまった。このことは、その後の日本の仏教を「戒律のない」仏教にしてしまうことにもつながるのである。

 三国伝来といわれるが、実際は「断絶と創造」が行われた。