No.03 旅の服装

No.03 旅の服装

2006/1/18(水)


 日ごろスーツに馴染んでいる身にとって、旅の間、財布やパスポートをどのようにもって歩くかに頭に悩ます。今回のシルクロードの旅は大陸性の気候で昼間は40度を超え、明け方は20度以下になるということ。長袖のカジュアルなシャツとベストの組み合わせということになった。

 ベストにはポケットが四つ、シャツにも二つあり、何れにもファスナーまたはボタンがついている。このベストが役に立った。荷物のチェックが厳しくなっていた。飛行機の国際線や国内線に乗るときは勿論である。今回は成田から西安西安からウルムチウルムチから敦煌敦煌から西安西安から成田、というように五回も飛行機を利用している。

 搭乗の際の身体の検査ではベストを脱いで、ショルダーバッグとともに渡せばよいということに気付いた。財布、電池、時計などはベストのポケットに入れておけばよい。受け取った後はそのまま着ればよい。荷物検査は飛行機だけではなかった。西安兵馬俑始皇帝の墓、大雁塔ではいずれも飛行機並みの身体検査があった。

 今回の旅の最後は西安である。西安の大雁塔は正式の名称を大慈恩寺塔といい、西暦652年に建造。慈恩寺はインドへの求法の旅から戻った玄奘が持ち帰った経典の翻訳の拠点としたお寺である。そのお寺に玄奘の建議によって652年に五層の塔を建った。これが大雁塔である。現在は七階建て高さは64m、最上階まで螺旋階段が続いていて、248段あるとのこと。

 螺旋状の階段は赤いペンキを塗ったばかりだった。触れるだけでは付くことはないのだが、すれ違いの時にこすってしまった。ベストに赤いペンキが付着。このベストはまだ洗濯をしていない。記念にこのまま残すか、洗うか。

(写真は敦煌の月牙泉を訪れたときのものである。強風が吹き荒れていた。)

No.04 月の砂漠

No.04 月の砂漠

2006/1/18(水)


 タクラマカン砂漠タリム盆地の大部分を占める。タリム盆地の北には天山山脈、南には崑崙山脈がそれぞれ東西に走る。天山山脈の南(砂漠の北)を通るシルクロードが天山南路(西域北路)、砂漠の南(崑崙山脈の北)を通るのが西域南路である。砂漠の大きさは、東西約2000km、南北約600km。日本がすっぽり入る大きさである。

 今回の旅ではタクラマカン砂漠に入ることはできなかった。二日目はトルファンに一泊した。トルファントルファン盆地のオアシス都市、天山南路の入り口の町である。しかし、トルファン盆地はタリム盆地とは別の盆地である。タリム盆地を鶏の卵大の楕円で表現すればトルファン盆地はその右上にくっついた鶉の卵である。火焔山はそのトルファンにある。

 砂漠といえば『月の砂漠』。出発前に、日が落ちて月が昇り始めた砂漠に向かってハーモニカを吹いてみたくなった。楽譜を手に入れてみるとシャープが一つついている。このような曲は苦手である。

 トルファンから東の敦煌やモンゴルにかけての砂漠はゴビタンといって砂礫でできている。まるで川原のようである。流砂の砂漠はタクラマカン砂漠の奥に行かないとお目にかかれないのだろうか。

 トルファンからはいったんウルムチに戻って、四日目の朝敦煌に向かった。敦煌の郊外に鳴砂山という名所がある。その麓に月牙泉(げつがせん)がある。大きな砂丘のもとに、三日月形の池があり、有史以来一度も涸れたことがないという。行ってみて驚いた。そこには、『月の砂漠』のイメージの砂漠があるではないか。近くの駐車場から、電気自動車か駱駝に乗ってゆく。駱駝は断念した。揺れがひどく乗りながらカメラを操作している余裕はないとのこと。しかし、電気自動車も道が悪い上に運転が乱暴で同じことであった。

 鳴砂山は広大な砂礫のゴビタンのなかで、流砂の砂漠の景観を作っている貴重な場所のようだ。そこに到着したのは夕刻。『月の砂漠』のメロディが浮かんでくる。満月ならばそろそろ顔を出しそうであるがと思ったとたんに体がよろける。強風が吹きまくっている。マスクやハンカチで顔を覆い、強風に飛ばされないように注意して足を踏ん張ってなくてなてはならない。何枚かの写真をようやくとった。

 

No.05 ブックロード

No.05 ブックロード

2006/1/18(水)


 帰宅してから気がついた。西安長安)は隋や唐の時代の首都であった。当然ながら、遣隋使や遣唐使の目的地でもあった。シルクロードにばかり関心がいっていて、すっかりそのことを忘れていた。西安市内には、興慶宮公園の安倍仲麻呂記念碑や青龍寺空海記念碑などがあるとのこと。仏教の勉強にとって仏教美術の知識が欠かせないことを教えてくれたのは空海であった。

 成田から西安までの飛行時間は3時間半であるから、およそ3000kmの距離である。海を渡るのも大変であったが、上陸してから西安までの旅はさらに大変だっただろう。空海の乗った遣唐船は途中嵐にあい大きく航路を逸れて福州長渓県赤岸鎮(福州市は福建省省都)に漂着。空海の一行はそこから長安に辿りつくまでに一ヶ月半以上を要している。空海はこの船団の第一船に乗っていたのだが、最澄も第二船に乗っていた。

 シルクロードの東の端は日本の奈良であるという説がある。シルクロードを通じてはるか地中海方面からもたらされた文物が正倉院に伝えられているからである。しかし、日本が中国に求めたのはシルクではなかった。遣隋使のメンバーには留学僧や留学生が多くを占めてきた。また、彼らは学んだ知識とともに、さまざまな書物も多く持ち帰った。先進国中国の文化や技術を必死に求めていたのである。そのため、長安と奈良を結ぶルートをブックロードという人もいる。

 長安から西へのシルクロードも単にシルクのみを運んでいたのではない。それは仏教東漸の道でもあった。ブッダロードいう呼び方をする人もある。このブッダロードを仏教がどのように伝播してきたのか、が今の私が興味を持っているところである。

(写真は西安の西の門からの風景。彼方は西域である。)

 

No.06 駱駝(らくだ)

□No.06 駱駝(らくだ) 2006/1/19(木) 午後 3:12 --49 旅その他 歴史 facebookでシェア twitterでつぶやく イメージ 1 イメージ 1  駱駝(らくだ)は到る所にいた。旅の三日目、トルファンの高昌故城(こうしょうこじょう)で初めて間近に見ることができた。駱駝の目は砂塵を避けるため、長い睫毛(まつげ)で保護されている。その睫毛のせいであろうか、つぶらな瞳をしており、顔も愛くるしくみえる。  高昌古城は499年に成立した麹氏高昌国の都城の跡である。三蔵法師玄奘も629年の9代麹文泰のときに立ち寄り庇護を受けている。火焔山の近くにある。遺跡の崩壊は激しく、まともに残る建物はなく土塊のようなものが続くのみである。  高昌故城は、周囲1.4kmの広い遺跡で、中心部まではロバの馬車で行く。ロバは黙々と馬車をひっぱているが、道は未舗装のでこぼこ道でときどき鞭を当てられていた。そのせいかどこか面倒くさそうな表情をしている。駱駝はその終点にいた。駱駝に乗ることもできのだろう。  ウルムチからトルファンまでは高速道路があってバスで三時間弱の距離である。途中は砂礫のゴビタンが続くが、ところどころで駱駝が放し飼いにされていた。駱駝草という潅木が生えている。駱駝の好物かと思っていたが、ガイドさんの話によると、駱駝の好むものではなく、他に食べるものがないときにやむを得ず、食べるにすぎないとのこと。  駱駝は一日に35km程度の速度で進み、一頭当り150kg程度の荷物を運ぶことができる。かつてはシルクロードの重要な交通手段であったが、自動車が普及するにつれてその重要性は減ってきた。  この辺りの駱駝はすべてふたこぶ駱駝である。聞いてみると、ふたこぶ駱駝は寒さに強いがひとこぶ駱駝は寒さに弱い、ということで、南北に棲み分けができているとのことある。アラビアのロレンスが乗っていたのはひとこぶ駱駝である。  駱駝は敦煌の月牙泉(げつがせん)にもいた。月牙泉の一帯は流砂の砂漠である。敦煌の一帯はほとんど砂礫の砂漠であるが、月牙泉の一帯だけは流砂の砂漠となっている。そこにも駱駝はいた。  トルファンへのバスの中で駱駝の足の裏の肉が美味で珍重されているという話を聞いた。敦煌研究院での食事にそれが出てきたのである。皿の上にきくらげをゆでたようなものが盛られている。タレをつけて食べるとのこと。感触も味もきくらげのようであった。 (写真は、高昌故城の中から火焔山を写したものと月牙泉での駱駝)

No.07 酒泉

No.07 酒泉

2006/1/20(金)


 中国にとって二回目の有人宇宙船となる「神舟6号」は2005年の10月12日、酒泉衛星発射センターから打ち上げられた。甘粛省に位置する酒泉(しゅせん)は、千年以上にわたり河西回廊(かせいかいろう)の中心として栄えたオアシス都市である。酒泉という名は漢の武将霍去病が漢武帝から賜った酒を泉に注いで全軍の兵士に分け与えたことに由来しているという。

 西安から西域へ向かうと黄河に出会う。黄河は青海高原に源を発し、西安の西を北上している。この黄河を西に渡ると河西回廊に入る。河西回廊の「河」は本来黄河を示す言葉である。したがって、河西回廊は黄河の西に回廊のように伸びた地域を指す。

 河西回廊の南には祁連(きれん)山脈がほぼ東西に走る。祁連山脈は、長さ800km、幅300kmにも及び、4000mを超える山々が幾重にも連なっている。祁連山脈の南は広大な青海高原である。祁連山脈の万年雪や氷河が融けた水が川となって、河西回廊にはいくつものオアシス都市がある。敦煌は河西回廊のもっとも西に位置し、西域への出口にあたる場所にある。河西回廊は月氏、そして匈奴の支配するところであったが、漢の武帝のときに中国の支配するところとなった。

 いくつかのオアシス都市を結んで西域への道が発達した。今日中原と西域を結ぶ道(国道312号)や鉄道(蘭新鉄道)もここを走っている。今回の旅では飛行機を利用した。西安を離陸してまもなく、眼下は一面のゴビ砂漠となる。航路は河西回廊を北に外れたゴビ砂漠の上のようだ。ゴビ砂漠の風景は2時間以上続いた。その広大さに、唖然とするしかなかった。

 酒泉衛星発射センターは、実際にはモンゴル自治区に近いところで酒泉のさらに北の方にあるそうである。

(写真は機上から北を写す。その彼方に発射センターがあるかも)

25-03 葬式と仏教

25-03 葬式と仏教

 


 今日の日本では葬式に仏教は欠かせない。お通夜と告別式、後の法事までほとんどが仏式で行われる。東アジアの仏教圏で葬式と仏教がこれだけ深く結びついたのはおそらく日本だけであろう。台湾や韓国では葬式は「道教」と結びついている。「道教」は道教的な習俗である場合もある。
 
 日本には神道がある。しかし、神道は「死」を忌み嫌ってきた。葬式と結びつくのは難しかった。しかし、仏教が初めから葬式に関わったわけではない。平安時代の末期、保元平治の乱のときには、戦場となった京都の六波羅のあたりには戦死者の死体が放置されていたという。後白河天皇がこの惨状を哀れみて戦死者の供養のために寺を建立した。それが三十三間堂(蓮華王院)である。屋内に安置されている千手観音の数は1001体。数の多さは戦闘の悲惨さを示しているのだろうか。

 室町時代に入って京都は南朝北朝が、また北朝同士が争う戦場になる。流浪化した難民も増える。戦死者や行き倒れもおおかった。現在の苔寺西芳寺)は廃寺となって遺体を捨てる場所であった。そこに禅の寺と庭を造ったのは、夢想国師である。

 仏教は死者の弔いをしたが個々の葬式とはまだ結びついていなかったのだろうか。仏教が葬式と結びついたのは民衆のレベルでは、江戸時代以降のことかもしれない。法事だけでなく、お盆やお彼岸の行事とも仏教は結びついた。お盆と先祖供養と結びついたのは中国においてである。『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』というお経が根拠とされている。しかし、お彼岸との結びつきは日本においてのみである。

 『盂蘭盆経』は仏教の個人主義を中国の忠孝の道徳に合わせて中国でつくられたお経である。お彼岸の行事はおそらく仏教が伝来する前からあった。先祖供養と結びつく内容があったのであろう。そのために仏教と結びつくこととなった。

 仏教と葬式の結びつきを快く思わない人がいると思う。しかし、仏教が日本において今日まで残りえたのはこの土地の習俗や文化の中に溶け込むことができたからある。お陰で私たちは、葬式や法事、彼岸や盆のたびに仏教を思い出すことができるのである。

 このテーマについては調べても分らないことが多い。ご存知の方があったら、ぜひ教えていただきたい。また、間違いがあればご指摘いただきた。よろしくお願いします。

No.08 夜光杯

□No.08 夜光杯 




 今回の旅行の土産は出発前から「夜光杯」と決めていた。名前のかもし出す神秘性に惹かれたのだ。夜光杯はガラスで造られたワイングラスに似ている。透明なガラスに半透明の墨色の模様があり、遠目には濃い緑色にも見える。墨色の主成分は鉄で、磁石に反応する。

 夜光杯は祁連(きれん)山脈の墨玉石という石から削り出される。夜光杯は本来は酒泉の特産品であった。しかし、祁連山脈の石が材料であるから、祁連山脈に沿った河西回廊の他のオアシス都市の土産物として広がった。

 敦煌のホテルの土産物屋さんで夜光杯の実物に出会った。ところが写真で見たほどの神秘性が感じられない。ガイドさんが夜光杯の工場に連れて行ってくれるという。莫高窟の見学を終えて食事までの間にその工場まで行った。

 敦煌の日の入りは遅い。日本と敦煌との時差は1時間。中国全体が北京時間を使っているのである。北京時間との間に事実上2時間程度の時差があり、敦煌は8月の下旬で夕方は8時を過ぎてもまだ暗くならない。

 工場に着いて驚いた。出迎えてくれたのはホテルの土産物屋にいたおじさんではないか。また、工場といっても、製作の実演の機械が申し訳程度に置いてある程度で、実態は大きな土産物屋であった。ガイドさんと土産物屋さんが結託していたのである。

 社長(おじさんのこと)は日本語が堪能であった。今年は日本からの観光客が少なく、たくさんの商品が売れ残っている、皆さんが買ってくれないとこの店も閉鎖しなければならない、とのこと。夜光杯は、特級、上級、中級の三段階に分けられていたが、特級は5割引、上級は3割引の特売セールになった。

 特級品は、模様の入り具合がよい。比較するとよくわかる。そこで、小さめのサイズのものを三セット買った。二つの杯がワンセットになっている。5割引で、三セットで6000円。これを5000円で買った。値引き交渉も買い物の楽しみの一つである。

 夜光杯といっても暗いところで光るのではない。その名前の由来は明らかでない。夜光杯は、王翰(おうかん 687~726年)の涼州詞で有名になった。

  葡萄美酒夜光杯     葡萄の美酒 夜光の杯
  欲飲琵琶馬上催     飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す
  酔臥沙場君莫笑     酔いて沙場に臥すとも君笑うこと莫れ
  古來征戦幾人回     古来征戦幾人か帰る