200-25-16

25-16 夢幻能

2006/3/1(水) 午前 7:10 --25 仏教と日本文化 歴史

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 『七人の侍』は、黒澤明監督の映画である。忘れられないシーンがある。侍の一人が野武士の動きを偵察にゆく。彼は野武士たちの気配を小高い山の向こうに感じ、木の陰からそーっと覗く。そのときのカメラワークがよい。映画を見ている観客も思わず引き込まれる。視界をその偵察の侍と共有することになる。観客も声を出すことはできない。息すら止めることになる。そこにいる野武士に気付かれてはならないからである。

 「夢幻能」といわれる一群の能がある。『松風』『井筒』などがそれである。夢幻能は特徴的な構造をもっている。それは旅人(多くは僧侶)であるワキが、何らかのできごとがあった場所(「ゆかり」の場所)におもむき、そこで人間として現われる前シテと出会って、昔のできごとの話を聞くところから始まる。物語を終えた前シテが突然かき消えて前半が終わり、後半になって、後シテが幽霊や妖怪の形で現われて、あらためて一人称で昔のできごと(悲劇)を物語り、霊験(奇瑞)を見せ、舞を舞ってかき消える。そのあとに、すべてが夢かうつつか分からぬままのワキを一人残して劇が終わる。

 夢幻能において、ワキはシテの登場場面を設定する。前シテは里女のように現実の世界の女性である。しかし、その登場の場面はすでに夢幻の世界に入っている。『松風』の場合がよく分る。

 「実に秋の日のならひとてほどなう暮れて候。あの山本の里まで程遠く候ふほどに。これなる海人の塩屋に立ち寄り。一夜を明かさばやと思ひ候。」

 ワキの僧は目的地の「山本の里」へ向かっていたが思いのほか早く日がくれた。やむなく一夜の宿を探すと、そこに「海人の塩屋」が見つかる、という設定である。そこに、汐組み女の村雨、松風の姉妹が現れる。

 『松風』の場合、僧が夢から覚める。夢から覚めたところにはただ砂浜があるだけである。

 「夢も跡なく夜も明けて、村雨と聞きしも今朝見れば、松風ばかりや残るらん。」

 ワキの役割は、観客をワキの夢の中にいざなうことである。ワキが通りかかるところはシテの霊力が及んでいる。ワキがそこを通りかかることによって観客にもその霊力がおよび、夢に立ち会うことになる。

 『七人の侍』の上記のワンカットを再放送でみていたとき、夢幻能のワキの役割のことを思い出した。