41-08 木造桟道

41-08 木造桟道

2006/2/1(水)


 石窟見学の最後に最上部にある第196窟を訪れた。断崖の中に造られた狭くて暗い階段をようやくにして上りきる。そこは展望台のように少し広くなっている。まぶしさをこらえて外に眼をやる。群生するポプラに囲まれたオアシスが眼下に広がる。オアシスの向こうには砂礫の砂漠が広がる。さらにその向こうに聳えるのは祁連(きれん)山脈の支峰、三危山(さんきざん)である。

 莫高窟(ばくこうくつ)の石窟は高さ15~30mの断崖に、上下、1~4段に重なりあっている。上下の移動は階段、左右の移動は桟道(さんどう)を利用する。石窟の並び方は不規則で桟道と階段はさながら迷路のようである。案内人なしでは、目的の石窟に辿り着くことはできない。

 莫高窟が世界に知られるようになったのは、「敦煌文書(とんこうもんじょ)」の発見がきっかけである。1900年、莫高窟の第16窟の中にいた道士・王円ろく(おうえんろく、「ろく」は草冠に録)が崩れ落ちた壁の中に四畳半ほどの空間があることに気付いた。その中には大量の経典・写本・文献が封じられていた。この窟は後に第17窟と番号付けされ、「蔵経窟」と呼ばれることになる。

 この噂をどこからか聞きつけてやってきたのがイギリスの探検家・オーレル・スタインである。1907年のことである。翌年にはフランスのポール・ペリオがやって来た。各国の探検隊の来襲は「敦煌文書」の散逸という残念な結果をもたらしはしたが、一方で、当時の莫高窟の写真が残ることとなった。

 当時の写真をみると、入り口付近が大きく崩れ、窟の奥の尊像が露出している石窟もある。桟道はもちろんほとんど残っていない。しかし、断崖の壁から何本もの柱が横に突き出ている。その並び方からして桟道を支える柱だったと思われる。

 また、造営当時は入り口には窟櫓(くつろ)があったと思われる。現在は唐と宋の時代の五つの窟櫓のみが残っている。第427窟の窟櫓は珍しい木造建築で保存状態もよい。

 石窟の入り口は窟櫓で覆われ、その間を桟道がはり巡らされていたとすれば、往時の莫高窟の概観は今よりもきらびやかなものであったに違いない。