41-21 初期の中心柱窟1 <第254・257窟>

41-21 初期の中心柱窟1 <第254・257窟>

2006/11/14(火)


■ 第254窟

 第254窟は北魏(386~534年)時代の石窟であり、中心柱窟としては最初期のものになる。中心柱の前はやや独立した空間となっている。第254窟の場合は、その部分の天井は中央の両端を切妻型に折り上げた人字坡(じんじは)、すなわち「人」の字型の構造をしている。

 方柱の正面はアーチ型の龕(がん)を彫りこみ、交脚の如来倚坐(いざ)像を、他の三面は龕を二層に開いて上層に菩薩交脚像、下層に定印の坐仏を配している。倚坐像とは椅子に腰掛けた像をいう。龕(がん)は壁に造ったくぼみで多くの場合、仏像を安置する。

 中心柱窟では一般に側壁の最上部にバルコニーを描いて天宮中の伎楽天をあらわし、その下は壁の上層を千仏で埋め、中層に仏伝、本生、譬喩等の本縁説話図あるいは仏説法図を描く。さらに側壁最下層に薬叉像をあらわす。この窟では、南北両壁の上部に、闕形龕(けつけいがん)や円拱龕(えんきょうがん)を設けたため、千仏の占める割合が少なくなっている。

 莫高窟の石窟はすべて入り口が東を向いている。したがって、奥に向かって左側が南壁になる。この窟の南壁の人字坡下に降魔図、その向かって右にサッタ太子本生が描かれている。北壁の人字坡下に難陀(なんだ)出家、その向かって左にシビ王本生が描かれている。方柱後部の西壁中央部には白衣仏があらわされている。この窟以外にも第263、第435、第288窟などにも同じ位置に白衣仏が描かれている。

 「サッタ太子本生図」は捨身飼虎本生図ともいわれる。サッタ太子が自らの身体を投げ出して飢えた虎の親子を救う話である。サッタ太子は釈迦の前世の姿である。釈迦が「降魔図」は数々の悪魔の誘惑にも関わらず悟りを開いた話。「シビ王本生図」は自らを犠牲にして飢えた鷹から鳩を救ったシビ王の話。難蛇(なんだ)は釈迦の弟子。「難蛇出家図」は愛妻スンダリーと別れて出家した話である。

 壁画のテーマには仏伝、本生話(ジャータカ)、経変図、因縁話などからとられている。仏伝は釈迦の生涯の伝記である。本生話は釈迦が前世において菩薩であった時、生きとし生けるものを救ったという善行を集めた物語である。因縁話は仏弟子や他のエピソードを主な内容とする。経変図は経典の内容を絵にしたものである。この時期にはまだ登場しない。


■ 第257窟

 長方形のプランの奥に方柱をほり出した中心柱窟(塔廟窟)である。方柱の前部は人字坡(じんじは)天井を形成する。方柱正面は大きな円拱龕(えんきょうがん)を開き、仏倚坐像を安置する。主尊は偏袒右肩(へんたんうけん)に袈裟をまとい、施無畏印(せむいいん)をとっている。主尊の後ろには身光・頭光、火焔文と飛天、その両側に供養菩薩などを描く。方柱の南・北・西の各壁は二層になっている。北壁の上層に菩薩倚像、下層に如来倚像、西壁の上層に交脚菩薩像、下層に如来倚像、南壁には思惟菩薩倚像が安置されている。

 東壁すなわち入り口の両側の内側の壁には大型の仏説法図が描かれていたが、崩壊により現存していない。南・北・西の各壁は、上層の天井バルコニー伎楽天、その下を千仏で満たすが、方柱に面する部分には闕形の門中に仏三尊を描く。その下の腰壁には本縁説話図を横長の画面に描いている。

 南壁には、「沙弥守戒自殺因縁」図が向かって左から右にの腰壁の部分に描かれている。「沙弥守戒自殺因縁」は、『賢愚経』に基づくものである。西壁腰壁には、「九色鹿本生」図が描かれている。支謙訳の『九色鹿経』がある。西壁の腰壁の北の部分から北壁にかけてスマティ(須磨提女)の因縁が描かれている。支謙訳の『須磨提経』がある。

引用・参照
雄山閣 『敦煌の美と心 ~シルクロード幻想~』
・東山健吾 『敦煌三大石窟 莫高窟・西千仏洞・楡林窟』 講談社選書 
文化出版局 『敦煌石窟』 精選50窟鑑賞ガイド<莫高窟・楡林窟・西千仏洞>