41-28 北魏、西魏・北周の時代と敦煌

41-28 北魏西魏北周の時代と敦煌

2007/5/1(火)


 太和九年(四八五)頃、長楽王秦州刺史の穆亮(ぼくりょう)が敦煌の鎮将に任ぜられた。穆亮は「政治を寛簡にし、窮乏を賑じゅつ」したので、敦煌はようやく安寧の機を得た。しかし当時、柔然の力はなお大きく、敦煌周辺は不安定で、たとえば敦煌の人・宋雲と恵生が仏教発祥の地である天竺に赴いたとき(五一八~五一一二)、わざわざ現在の青海省を経由していることからみても、六世紀の初頭に至っても敦煌と西域の交通は必ずしも順調とはいえなかった。

 正光五年(五二四)、敦煌鎮は瓜州と改められたが、内地では北魏自身をゆるがす六鎮の乱が起こり、河西地区にも影響をおよぼした。涼州は宇文氏が割拠し、瓜州、晋昌一帯でも小規模な反乱が起こり、刺史・太守が殺され、州城が占拠されることもあった。

 この頃(孝昌元年[五二五]以前)に至って、明元帝の四代目の後裔にあたる元栄が瓜州刺史に任ぜられている。さらに永安二年(五二九)には、元栄は東陽王に封ぜられ、莫高窟に窟がんを造営し、多くの経典を写した。

 五二五年、字文泰が政権を握り、北魏武帝を殺して元宝くを立てて文帝(在位五三五~五五一)となし、長安に都して大魏を称した。これが「西魏」である。敦煌西魏に帰すが、元栄は瓜州刺史にとどまっている。北魏末から西魏にかけて、敦煌にゆったりした衣服「褒衣博帯」(ほういはくたい)の、細面のすらりとした秀一麓な容姿である「秀骨清像」と称される中原様式が盛行するのは、宗室出身の元栄が都洛陽からもたらしたものといえる。

  字文護になって西魏恭帝を廃し、字文覚を帝に立てて、はじめて宇文氏が名実ともに政権を握る。いわゆる「北周」である。五五七年のことであった。

 保定三年(五六三)、敦煌は改められて鳴沙県となった。天和六年(五七一)頃になって燕国公子うしょくが涼州大総管となり、弟干義は瓜州刺史・建平郡公に任ぜられ莫高窟に窟を造営している。しかし、建徳三年(五七四)には武帝(在位型五六一~五七〇)の廃仏が起こり、瓜州の阿育王寺、沙州の大乗寺が廃されたので 莫高窟の造営も頓挫を余儀なくされたことだろう。
 
 北周武帝が卒し、大成元年(五七九)に宣武帝が即位すると仏教が復興し、敦煌でも豪族による造営が行われた。

参照・引用資料
・東山健吾『敦煌三大石窟』講談社選書メチエ